【特集】選手としては達成できなかったが…、目指せオリンピック! 吉村祥子


    

       

       


吉村祥子の略歴 ⇒ クリック 世界V5達成直後の記事 ⇒ クリック
吉村祥子の全成績 ⇒ クリック 吉村祥子の取った39個のタイトル ⇒ クリック

  「アマチュアに引退はない」とは、よく言われる言葉。引退を宣言する必要もなければ、戦いたくなったら戦う自由があるのがアマチュアだ。プロと違い、結果が出なくても生活にかかわることはない。健康維持の一環として試合に出ることがあっても、何ら問題はない。

 だが、昨年秋に現役引退を表明した女子48kg級の吉村祥子(コミーインターナショナル/エステティックTBC=
写真左)は言う。「負ける自分が許せません。弱くなった自分を見せたくありません」。日本の女子選手として初めて世界チャンピオンに輝き、通算5度の世界一、10度の世界選手権出場など、数々の栄光を手にした選手は、そのプライドにかけて、二度と選手としてマットに上がるつもりはないようだ。

 アテネ五輪をかけて出場した2003年全日本選手権で坂本真喜子(中京女大)に1−4で、2004年ジャパンクイーンズカップで伊調千春(中京女大)にテクニカルフォールでそれぞれ敗れてしまった。この2人とは差があるかもしれない。しかし2004年全日本選手権で2位となった船津友里(東洋大)には、その約1年前に6−0で勝っている。もし2004年の全日本選手権に出場していれば、優勝は無理でも2位か3位に食い込むだけの力は残っていただろう。

 だが、吉村は「そういう気持ちにもならないんですよ」と、この話には乗ってこない。世界V5の選手が全日本の2位や3位で満足できるはずもないだろうが、「今までたくさんの人にお世話になりました。日本協会や全日本女子連盟の人たちに恩返しがしたい。後輩の役にたちたい」と、気持ちは完全に指導者のそれに切り替わっているからだ。

 2月16日からの全日本合宿(東京・国立スポーツ科学センター)に参加して伊調千春や坂本真喜子の練習相手を務めた時も、頭の中にあったのは「若い選手を応援したい。手助けになれれば」という気持ちであり、試合で戦えばどうなるか、といった気持ちが浮かぶこともなかった。

 もっとも、こうした気持ちになるまでには時間がかかった。女子レスリングのいわゆる一期生の中で、最後まで現役選手に執着したのが吉村だった。95・96年ころには、周囲に初期のころからやっていた選手がいなくなった。仲間がいたからこそ耐えられた厳しい練習は、仲間がいなくなった寂しさをぶつける場として耐えることができた。そして、世界一のまばゆいばかりの栄光を「もう一度味わいたい」という気持ちが、何よりのエネルギーだった。

 女子のオリンピック採用の夢は、4年ごとに打ち砕かれた。「アテネ五輪こそは大丈夫」という情報が入り、「今度こそ採用されるかも。あと4年くらいなら…」と続ける気持ちになったのが2000年。そして2001年9月にアテネ五輪採用決定の朗報が届き、12月の全日本選手権で優勝。アテネ五輪出場という大きな目標ができた。

 しかし若手の成長は予想以上だった。最後の望みをかけた2004年2月の伊調との試合は
(写真右)、何もできないままのテクニカルフォール負け。「そのあと、1週間は何もできませんでした。仕事を休ませてもらい、家族にも友達にも会わず…。あれがバーンアウトという状態なんでしょうね」。過去のものとして振り返るその表情には、言いようのない寂しさが漂っていた。

 アテネへの道がなくなったら引退と決めていたが、最後の試合が納得できなかったので、マットを去る気持ちにはなれなかった。「力のすべてを出し切ってマットに倒れるような試合をやって、それで選手生活にピリオドを打ちたかったんです。でも、そうではなかった」。マットは自分の分身。離れたくない気持ちもあった。「いつかはマットを去らなければならない。でも、選手生活が終わることの怖さもありました」と、進退を決断できない自分がいたと振り返る。

 その気持ちにピリオドを打ったのが昨年の全日本選手権の前、冒頭の「負ける自分が許せません。弱くなった自分を見せたくありません」という気持ちだ。「世界V5選手の美学だね」の声に、にっこりと微笑んだ。アテネ五輪へは出場できなかったが、その栄光が日本レスリング界から消えることは永久にないだろう。

 気持ちを切り替えた吉村は、3月2日、まずジュニア・チームのコーチとしてスウェーデンに向かった
(写真左の右端)。「代々木クラブでコーチみたいなことをやっていましたけど、本格的なコーチはこれが初めて。まず、コーチに必要なことは何かを学んできたいです」と、選手だけではなく、吉村にとっても勉強の遠征となる。

 世界一に輝いた選手が指導者になった場合、陥りやすのが「何でこんな技ができないんだ」「なぜ、こんな練習ができないんだ」という考えになることと言われる。しかし、代々木クラブに練習場を提供し、今回の遠征にも同行する東京・安部学院高校の成富利弘監督は「吉村にその心配はいらないですよ」と太鼓判を押す。代々木クラブはエリートのクラブではなく、体力もままならない初心者の入門もある。そうした選手にも懇切丁寧に指導してきており、自分の感覚を押し付ける人間ではないという。

 吉村自身も、時代の流れというか、選手の育ってきた環境の違いを敏感に感じ取っている。初期の栄光を支えた選手にとって忘れられないのが、1991年の東京・世界選手権前に新潟・十日町市で行われた合宿の厳しさだ。コーチは選手を竹刀で容赦なくたたき、徹底した厳しさで強化をはかった。「レスリングの練習に一番必要なことは技のマスター」と言う指導者が見たら、顔をしかめるような“しごき”の日々。

「お風呂に入ったらイスに座れないんです。お尻を見たら、みみず腫れが何本もできているんです」と吉村。苦しさに耐えさせるだけの練習と言っては当時のコーチに失礼だが、後にも先にも、あの厳しさを上回る合宿は実施していない。

 吉村は「あの厳しい練習があってこそ今の自分が存在するのですが、今の世代にあの練習をやらせたら、選手がいなくなってしまいますよ」と笑う。吉村たちの世代は、まだ親からはたかれて育った世代。今の世代は親からはたかれたこともない選手が多いので、吉村たちのときと同じ方法で、果たして強くなれるものかどうか? 話をして、理解させた上で、厳しい練習をやらせるべきじゃないかな、ということである。

 その指導法がどう出るかは、将来にならなければ分からないが、初めての女性コーチの誕生に、期待されることは多い。これまで日本の女子スポーツは、たいがいにおいて男の指導者が引っ張ってきた。だが、例えば生理期の心身状態など、女性でなければ分からない部分は少なくない。
(写真右=代々木クラブで指導する吉村祥子)

 吉村は「(女のコーチが)いないのが当りまえでしたからね…」と、その必要性を感じようとも思わなかったそうだが、「今思うと、いてくれたらよかったかな、と思う面はありますね」と振り返る。宇津木妙子監督が引っ張ったソフトボールが、“女と女の対話”で団結し、シドニー五輪とアテネ五輪で好成績を挙げている。時代の流れや選手の意識の変化により、男の指導者だけでは務まらない時代がくることも十分に考えられる。

 日本協会の栄和人・女子ヘッドコーチは「実績的にも申し分ないし、2月の全日本合宿でも熱心に指導してくれた」と吉村の存在を高評価。「まずジュニア・チームで経験を積み、いずれ全日本チームのコーチもこなせるように頑張ってほしい」と、将来は全日本チームのコーチになりうる人材として期待している。

 吉村は「まだコーチとしての実績がありませんから」と、全日本のコーチに対する希望も執着も口にしないが、五輪代表選手を指導できる女性コーチとなると、現段階では吉村しかいない。なぜならば、コーチにとって選手時代の実績は大事な要素。これがなければ、どうしても指導に遠慮が出てくるし、選手が言うことを聞いてくれない場合もあるからだ。吉村にかかる期待は大きい。

 選手としては達成できなかったオリンピック出場の夢。その夢を違う形で実現する道は残されている。まずジュニア・コーチから始めるので、2008年北京五輪にオフィシャルのコーチとして参加している可能性は少ないが、誰よりも長くマットを愛し、誰よりも多くの汗と涙を流した吉村なればこそ、その情熱を8年後、あるいは12年後まで持ち続けることはできるはずだ。いや、持ち続けてほしい。その夢の実現が、これまでの19年間の総決算なのだから。

(取材・文=樋口郁夫)




《前ページへ戻る》