【特集】「世界の友達は私の誇り、そして財産です」


※下記は世界V5に輝いたあとの1995年12月、日本レスリング協会機関誌「月刊レスリング」に掲載された記事です。

 9月、モスクワで行われた世界女子選手権。日本陣営で最初に金メダルを決めた44`級の吉村祥子(当時スポーツ東急=代々木ク、写真右)は、“最後の試合”を決意して決勝のマットに上がった山本美憂(日体パンサーズ)に、マットサイドから「ミユウ、一緒に世界lになろうね」と声をかけた。日本のエースにふさわし気配りだった。吉村の激励に、にっこりうなずいた山本美憂は、この日限りでマットを去った。しかし吉村は、まだその情熱を燃やし尽くしてはいない。


 「正直言って、もう今年で終わってもいい、って思っていたんです。これが最後の試合になっても悔いのないように、って思っていました」。そんな決意を裏付けるかのように、試合前、吉村の口から「一生の思い出になるような写真を撮ってくださいね」という意味の言葉が、何度も出てきた。

 1回戦が終わると「私のレスリング人生も、あと3試合」と思った。2回戦が終わると、「あと2試合」に変わった。しかし決勝のマットに上がる前、その気持ちが変わった。「まだ何度でも、この気持ちを味わいたい」。決勝
(写真右)が終わると、その気持ちがさらに強くなった。

 試合前のプレッシャーは、何度経験しても嫌なものだ。「もう、こんな経験したくない。もう、こんな重圧には耐えられない」と思う。吉村の場合、減量との闘いも、耐えがたい試練として存在する。

 通常体重は51〜52kg。46kgぐらいまではスムーズに落ちてくれるが(注:当時は44kg級)、そこから地獄の苦しみが始まる。今回は、日本を発つ前に予定より200gオーバーだった。それが尾を引いた。最後の練習で1時間半みっちり動いたが200cしか落ちてくれず、体重は44・4kg。女子の場合は水着の分として200gオーバーで計量するので、44・2kgまであと200gを落とさなければならない。

 「走れ」 「サウナだ」。コーチがいろいろ声をかけてきた。走っても汗が出る気配はなかった。これまでの経験からして、サウナに入っても皮膚が乾操して火傷(やけど)状になるだけで発汗は期待できなかった。金浜良コーチ(ユニマットコーポレーション)が「フロだ」と叫んだ。

 水着になった吉村は、水温約45度の浴槽に首まで入れられ、5分間、お湯の外へ出してもらえなかった。「苦しい! 出して!」と叫んでも、ストップウォッチを持って“監視”している金浜コーチは認めてくれなかった。額に汗が浮かんでくる頃、やっと外へ出してもらえた。汗が引くと、また強制入浴だ。何セットやったかは覚えられなかったが「全部で1時間くらい」かかり、やっと200gが落ちてくれた。

 その夜、寝言で「熱い!」と叫び、うなされていたと証言するのは、同室だった大島和子マネージャー(城西高教)だ。こんな苦しい思いは、もう最後にしたかった。

 しかし1回戦
(写真左)、米国の成長株のビツキー・ズモーに強烈なタックルで先制された時、脳裏をよぎったのが、この減量だった。「あんな苦しい思いをしてきた。こんなところで負けてたまるか、と思った」。闘争心が燃え上がった。来年も続けようと気持ちが変わったのは、厳密に言うと決勝の前ではなかった。ズモーの強烈な一撃を受け、闘争心が全く衰えていないことに気がついたこの時だった。衰えぬ闘争心の前に、引退など考えられなくなったのだ。

 「減量自体は、苦にならないですよ」と言う。一番嫌なのは苦しんでいる最中の心の葛藤(迷い)。他人の何気ない言葉に対して不安になったり、いらいらしたり…。こんな闘いから逃げ出したいと思うのは、当然のことだろう1階級アップは、あまり考えたことがない。「減量が嫌だから1階級上げる、では絶対に勝てないと思う」と言ったあと「44kg級に思い入れもあるんですよね」とつけ加えた。

 その44kg級で「金5、銀1、飼2」は、世界の女子レスリングの歴代メダリストのトップ。世界選手権の出場回数8度(全大会出場)も、世界の中で吉村だけが記録している偉業だ。約10年間の積み重ねだった。

 日本に女子レスリングが“輸入”された直後に、レスリングを始めた一期生。厳密に言えば一・五期生くらいにあたるが、代々木クラブの同期生10人の中で、まだ現役選手を続けているのは福原邦子(53kg級・当時京樽)ただ1人だ。

 「10年間もやってこれたのは、仲間がいたからなんですよね。その仲間が、1人やめ、また1人やめて…。寂しいし、続ける気持ちもなくなりかけますね」。もちろん、代々木クラブには次々と新しい選手が入り、レスリングという共通項で結ばれる仲間が途切れることない。しかし世代のギャップがあり、会話が合わないことも少なくない。

 「本当に気心の知れた仲間がマットからいなくなるというのは、とても孤独を感じるんですよ」。10年間のうち、最初の5年を同期の仲間とともに歩んだとすれば、あとの期間は寂しさを練習にぶつけてきた5年間だった。練習をしている時は、すべてを忘れられた。

 現在の生活は、朝6時に起床し、7時に神奈川県藤沢市の家を出る。東京都中央区のオフィスで夕方5時まで仕事。そのあと北区の安部学院高(現在の代々木クラブの練習場所)へ向かい、6時半から9時まで練習。家に戻るのは夜11時。「友達と会うこともできないですよ」。

 耐えることができるのは、勝った時の喜びがあるから。そして、自分を応援してくれる人達の存在も、吉村を支える大きなカになっている。

 しかし、レスリングから離れられない一番の理由は「レスリングのおかげで、自分の世界が広がったから」だと言う。レスリングのおかげで、いろんな国へ行くことができ、その国の文化に接することができ、外国の友達もできた。91年の世界女子選手権で戦って以来、ことしも含めて何度も激戦を繰り広げてきたタチアナ・カラムチャコワ(ロシア)とは、マットを下りたら片言の英語同士で、何時間でも話をする“親友”だ。この先、一生のつきあいとなるだろ。

 「私の最大の財産です。支えと言ってもいい」。マットから離れられない本当の理由は、この財産と心の支えをなくしたくないからのようだ。

 コーチとしてでも、こうした財産を手にすることはできるだろうが、「全日本のコーチになるのは難しいですよ。技術指導では、男のコーチには絶対に勝てません。大島(和子)先生のような縁の下の力持ちは、とても真似できませんし…」と言う。

 若い選手を見ていて、理解に苦しむことが多いのも、コーチへの道に気が進まない理由だ。「2位に終わっても満足して引退するし、大学を卒業したらやめる、というのが今の選手」と話し、私だったら、勝つまでやめないですよ、とでも言いたげ。練習で厳しくされた時は、泣きながらでもコーチに向かっていき、カを出したのが吉村達の世代の選手。練習量をこなして不安を吹き飛ばし、その中から自信をつけてきね。今は、それがないという。

 「将来を考えたら、どちらがいいか分からない」と前置きしながら「レスリングヘの思い入れが違いすぎます」と言う。

 やはり選手が一番だ。「選手の方が(コーチより)楽ですよ」とも言う。しばらく選手活動から離れられない。以前に比べ、ハードな練習に対する体力の衰えは感じるが、試合に対する体力の衰えは、全く感じない。世界チャンピオンを転落した(91・92年)あと、いっそう強くなっているというのがコーチの一致した意見であり、まだまだ世界チャンピオンを続ける可能性は十分だ。

 2000年シドニー五輪での女子採用がかなり濃厚になり、大きな目標ができそう。だが「あと5年…。今までやってきた期間の半分ですね。ちょっと考えられないですね」と苦笑いしたあと「あと1年、あと1年、と思い続けて5年やっていることはあるかも。でも、5年後を目棲に続けよう、という気持ちにはなれません」と言う。

 ただ、仮に途中で引退しても「2000年の時には(復帰して)挑戦してみたくなると思う」とも言う。2000年では、吉村はどんな形でオリンピックにかかわっているだろうか?

 頂点をきわめ、その後は他の分野へ挑戦する山本美憂の生き方も“青春”のひとつだろう。一方で、寝食を忘れて “心の財産” のレスリングに打ち込み続ける吉村の姿も、間違いなく青春群像である。仲間がいなくなる寂しさ、減量苦、試合前のプレッシャー…。数々の敵と闘いながら、吉村の挑戦は続く。




《前ページへ戻る》