【特集】「生徒に伝えたいことがある」…マットに戻ってきた“元”選手・伊藤光(岡山・倉敷北中教)【2008年7月16日】






 7月12〜13日に埼玉・朝霞市で行われた全日本社会人選手権の会場に、久しぶりに見かける顔があった。「(大会に出るのは)2年ぶりです」。少し気恥ずかしいような顔をしてみせたのは明治乳業杯全日本選抜選手権の「グレコローマン60kg級で2位になったこともある伊藤光選手(28歳=左写真)。

 岡山・倉敷高時代からレスリングを始め、日体大に進んで4年生の時にグレコローマンに転向した。03・04年の全日本選抜選手権では、ともに決勝で笹本睦選手に敗れたものの2位へ
(右写真=04年全日本選抜選手権決勝で笹本に敗れる)。05年に地元岡山で開催された国体で66kg級3位に入賞。翌06年の全日本選抜選手権(初戦敗退)を最後に、体育教師の職務に専念するため、レスリングを離れることになった。

■岡山国体のあと、「もうレスリングに関わることはないかもしれない」と思った

 2年間のブランクを経て出場したのには理由があった。

 数年前にさかのぼる。顧問をしていた柔道部の生徒のひとりが岡山国体での伊藤の試合を見てレスリングに興味を持ち、「面白そうなのでやってみたい」と伊藤に申し出た。「倉敷北中にはレスリング部がなかったので、もうレスリングに関わることはないかもしれない、と思っていました」。職場の校長や教頭に相談すると、すぐに許可がおり、柔道部の練習終了後に社会体育の形でレスリングを教えることになった。

 理解ある上司に恵まれたことに感謝の気持ちでいっぱいだった。さらに、事情を知った岡山県協会の古川興幸理事長の計らいで、岡山国体で使用したマットを提供してもらえた。格技場は広く、畳の横にマット1面を常時敷くことができた。「ほんとうに恵まれています。最初は1人だけだったのが、今は10人です。柔道部に所属するほとんどの選手が、週3回のレスリングの練習に参加しているんです。大会にも参加していて、西日本チャンピオンになった子もいました。(伊藤選手の)母校の倉敷高校でレスリングを続けている卒業生もいるんですよ」と、うれしそうに語った。

 その卒業生達は、伊藤が岡山国体で闘う姿を見ているが、現在の生徒達は彼が第一線で活躍していたのを誰も見ていない。「いつも生徒達を激励しているんですが、なかなか生徒に伝わらなくて…。今回きつい減量をして久しぶりの挑戦をしたのは、生徒達に『決めたことをあきらめずに最後までやり通すこと』が大事ということを、自分の姿を通して見せたかったんです」と説明する。レスラーとしての立場よりも、一教師として挑戦を決めた。

■復帰戦は3位。しかし、これは本格的カムバックの布石

 だが、この2年間、運動と言えば中学の柔道部選手の指導だけで、全く練習できていない状況だった。「2年とはいえ、世代交代していて選手がわからないし、練習不足で自信もなかったです」。プライドが邪魔をしてしまい、出場にためらいも出てきた。まるで未知の世界に飛び込むような感覚だったと言う。それでも「生徒に伝えたい」という気持ちが勝った。

 現役時代に70kgほどあった体重は、練習していないため2年間で65kgまで落ち、60kg級では通用しない体力になっていた。55kg級で挑戦することに決め、通常通りの仕事をこなしながら以前のような10kgもの辛い減量に取り組んだ。その体はブランクを感じさせないものだったが、試合勘の戻っていない伊藤の動きは全盛期のものとはやはり違い、準決勝で平尾清晴(新潟県協会)に敗れて3位だった
(左写真:全日本社会人選手権で闘う伊藤=青)

 しかし今回の出場は今後の選手活動の布石だ。「負けて悔しかったです。でも今日やってみて、もう少し昔の自分の動きを取り戻せる感触がありました。現役時代に全日本で優勝できなかったのが心残りでもありました。次はしっかり練習をしてから出たいと思います。夏休みは倉敷高校の練習に参加させてもらおうと思っています」

 来月は55kg級での国体出場を目指し、県予選に参加する予定だという。グレコローマン55kg級といえば、大学の先輩にあたり、今大会敢闘賞を獲得した村田知也選手(三重・久居高教)が2005・07年に国体チャンピオンになっていて、県予選を勝ち抜いて出場することになれば対戦する可能性が出てくる。「村田さんが滋賀の高校にいた時、よく週末に一緒に練習させてもらって、お世話になりました。でも、闘うことになったら、絶対負けません!」

■仕事の合間のレスリング活動。それでもレスリングへの情熱でマットへ戻る!

 決意は固い。今秋には天皇杯全日本選手権の予選にも挑戦する心づもりだ。だが、仕事を抜けられないかもしれない。今回も、金曜日の仕事を終えて夜行バスに飛び乗った。揺られること11時間。土曜の計量に出て、日曜の試合に参加。そしてまた夜行バスで岡山に戻り、朝8時に到着したその足で月曜の仕事に向かった。

 確信を持てない中で、進むしかない。それでも、伊藤はそれを大変だったようには話さない。自分が手本となって生徒達に何かを伝えられたら…。そう願う“センセイ”の姿からは、『現役』時代よりも強いオーラが放たれていた。あの頃よりも背負うものが大きくなった伊藤の芯の強さもある。離れていた分、レスリングをもう一度やりたい、という気持ちも強くなっているに違いない。

 それは生徒にも伝わっているはずだ。伊藤が生徒達の身近なヒーローとなり、その背中を見てレスリングを愛する後継者が育って行くだろう。

(文・撮影=保高幸子)

 伊藤光(いとう・ひかる) 1979年9月4日、岡山県生まれ。倉敷高〜日体大卒。倉敷北中教。高校時代は全国大会ベスト8どまり。グレコローマン60kg級で03年全日本選手権3位、03・04年全日本選抜選手権2位のほか、03年アジア選手権5位。164cm。

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