【特集】大沢友博監督が「生徒たちがよくやってくれた!」と男泣き! 霞ヶ浦が無冠から復活V!【2008年8月3日】






 群雄割拠の高校界で今年の頂点に立ったのは、“無冠”からはい上がってきた霞ヶ浦(茨城)だった。3年ぶり19度目のインターハイ優勝−。かつての“勝って当たりまえ”のクールな霞ヶ浦のムードはどこにもない。まるで初優勝を狙うかのように、チーム一体が1アクションごとに盛り上がっていた。

 3−2で迎えた84s級の菊池崚が花咲徳栄(埼玉)に引導を渡す勝利を収めると、冷静な大沢友博監督が思わずマットに駆け上がり、菊池を抱きしめて復活Vの喜びをわかちあった
(右写真)

■悪夢の関東大会V逸から2ヶ月で全国一へ

 1990年〜2000年にインターハイ11連覇を達成し、不滅の金字塔を打ち立てた霞ヶ浦。だが、ここ3年は苦戦が続き、インターハイどころか、今年は関東高校選抜大会、全国選抜選手権、関東大会と主要タイトルを次々と落とし、学校に当たり前あった優勝旗や優勝カップがひとつもなくなってしまった。

 「自分の指導が悪い」と丸刈りで責任を取った大沢監督。衝撃の丸坊主姿から2ヶ月、スポーツ刈り程度に伸びた髪形の指揮官の目からは涙があふれ、声をつまらせながら、「選手が良くやってくれた。よく(自分の)練習についてきてくれた」と選手の健闘をたたえた。

 6月の関東大会時点では、大沢監督が語るように日本一になる戦力ではなかった。「声が出ていなくて元気がない。主将(74s級の福山和也)も負けてしまって…・」。ライバルの花咲徳栄に比べると戦力もさながら、明らかに気持ちも落ちていた。関東大会で負けて、無冠になった時は、「これが指導の限界だと思った」と引退すら覚悟したという。

 だが、すぐに気持ちを切り替え、「あと2ヶ月でなんとかします」と言い切った。その約束を見事に果たした。「自分が頭を刈った(坊主にした)ことで、生徒たちにプレッシャーがかかってはいけない」と、生徒には一切罰を与えなかった。その気持ちが生徒たちにまっすぐに伝わる。キャプテンの福山
(左写真)は「(大沢監督の丸刈り姿は)びっくりした。でも気持ちが通じ合った」と話す。

■優勝に導いた日本一の練習量が選手たちの自信に

 関東大会からたった2ヶ月で、どのようにしてチームを優勝に導いたのか−。「高校生は気持ちが一番なんです。関東大会直後に、敵陣の花咲徳栄に乗り込んで練習をさせていただきました」。当然、力のある花咲徳栄の前に、スパーリング10本まではバラバラにやられた。だが、ラウンドを重ねるごとに霞ヶ浦の運動能力が目覚め始める。「20本になると、うちのほうが勝っていた」。これが選手たちに「1回戦、2回戦と勝ち抜いて、決勝で最強でいられるのは自分たち」という自信を植え付けた。

 今大会の初戦は、に5−2でまずまずのスタート。2回戦の新潟県央工(新潟)戦はエンジン全開で7−0で快勝し波に乗り、決勝まで勝ち上がった。課題は、絶対的ポイントゲッターの50s級・森下史崇、74s級・福山和也、84s級・菊池崚以外のあと1勝をどこで取るかがだ。その期待に答えたのは60s級の岩渕尚紀だ。第1ピリオドの終盤にタックルで貴重な1点をもぎとると、第2ピリオドもきれいな両足タックルで1点、そしてとどめのローリングで勝利へのアシスト白星を決めた。

 大沢監督が「指導の限界かな」と関東大会でもらした本音。しかし、2ヵ月後に勝てるというという信念に揺らぎはなかった。「うれしくてしょうがない。(ここまでの道のりが)だいぶきつかったんで。やっぱり霞ヶ浦高校には”優勝”の二文字しかないので」と伝統を守れた安堵感を見せた。

 大沢監督が涙を流したのは1987年の初優勝の時、そして鹿屋中央に残り15秒で逆転勝ちした1998年の優勝に続く3度目。久々に流した優勝の涙。これでやっと優勝カップがひとつ戻ってくる。

 「これから一つ一つ、取り返します」と大沢監督。強豪・霞ヶ浦が“グランドスラム”に向けて、また再び歩き出した−。

(文・撮影=増渕由気子)


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