【特集】北京オリンピックにかける(10)完…女子55kg級・吉田沙保里(ALSOK綜合警備保障)【2008年8月9日】






 前夜(8月8日)開幕した北京オリンピック。幕開けとなる開会式では、卓球の福原愛選手の旗手のもと日本選手団がメーン会場を行進した。旗手の栄誉というのがバリバリの金メダル候補が引き受けるものなら、女子55kg級の吉田沙保里(ALSOK綜合警備保障=左写真)が選ばれるべきだっただろう。

 アテネ五輪の騎手がレスリング選手(浜口京子)だったためか、それとも2005年ユニバーシアード、2006年アジア大会と総合大会2大会連続で吉田が旗手を務めたためか、候補には挙がったが見送られた。女子55kg級では他の選手を大きく引き離しており、日本選手団の中の金メダル候補最右翼であることに間違いはない。

■M・バンデュセンとの実力差は明白だが、一筋縄ではいかない相手

 1月のワールドカップで連勝記録がストップ。その事実もって、「吉田沙保里」という名前がいっそう知られるようになった半面、「金メダル、大丈夫かな?」という気持ちを持った人も少なくない。冷静に分析するなら、吉田を破ったマルシー・バン・デュセン(米国)と吉田の実力差は明白だ。

 デュセンは昨年世界10位の選手。今年2月のパンアメリカン選手権でも優勝できず、その後の北京五輪予選第1戦で出場権を取った選手だ。1月の殊勲は、タックル返しという研究と練習を重ねた技で千載一遇のチャンスをものにした勝利だ。

 吉田はその一戦のあと、「返されないタックル」を繰り返し練習してきた。「片脚タックル、横についてのタックル、持ち上げてのタックル…。スパーリングでも意識してやっています」と、同じ失敗を繰り返さないという姿勢で練習に臨んでいる
(右写真=栄和人監督、金浜良コーチからアドバイスを受ける吉田)を。バンデュセンに今度も吉田に苦汁を飲ませるだけの実力差があるものかどうか。

 確かに一筋縄でいかない選手ではある。吉田との試合は2度のタックル返しが注目を集めているが、それだけの選手ではない。第1ピリオド、先に足首へのタックルを仕掛け、必死にエスケープをはかる相手をねじ伏せて1点を先制したのはバンデュセンの方だ
(左写真上)。第2ピリオドのタックル返しの直前には、あと一歩でテークダウンがとれた吉田のタックルからの攻撃をカニばさみという奇襲でしのいだ(左写真下)

■因縁の相手との再戦に必ず出てくる“嫌な気持ち”

 カニばさみというのは、ちょっとでもタイミングがずれれば間違いなく失点につながる技。これを“世界の吉田”相手にやってのけた実力は、並の実力ではあるまい。「たら」「れば」になるが、「吉田が1点を先制されていなければ」、「バンデュセンがカニばさみを決められなかったら」、吉田の歴史的敗北はなかったかもしれない。

 バンデュセンにタックル返しの作戦をさずけた米国女子チームの八田忠朗コーチの持論は「レスリングはパワーではない。梃子(てこ)の原理の応用」。米国選手は、男女を問わず平均して返し技がうまい。

 さらに、1度負けた相手とやる時は、どうしてもその時の思いが脳裏をよぎってしまう。1976年モントリオール五輪を含めて世界4連覇していた高田裕司・現日本協会専務理事(山梨学院大教)が自らの経験を振り返ってくれた。連勝をストップさせられたのはソ連のアナトリー・ベログラゾフ(1978年)。翌年の世界選手権でもアナトリーと初戦で激突することになったが、「嫌だったね。どうしても負けた思いが脳裏をよぎってしまうんだ」。

 それは、2006年世界選手権で許海燕(中国)相手に4年越しのリベンジ戦に臨んだ伊調馨選手も口にしていたこと。前年まで4年連続世界一(五輪を含む)の伊調と許海燕とでは格の違いは明らだったが、「負けた思いが消えなかった。腰が引けて積極的に攻撃できない自分がいた」と振り返る。

■最も必要なものは“攻撃にいく勇気”…男子の史上最強レスラーからの熱きラブコール

 「だからこそ」と高田専務理事。「攻撃にいく勇気が必要なんだ」−。タックル返しを警戒し、片脚タックルや横につくタックルを主体に攻撃するのもいいが、それらを決めるためにも必要となってくるのが、攻め込む勇気。練習でどんなにうまくやれても、それが試合で決まるとは限らない。試合で決めるために絶対に必要なもの、それが勇気だ。

 吉田も十分に承知している。「返されることを警戒してタックルを出せなかったり、へっぷり腰になってしまうのが一番ダメ」と話す。「(昨年こだわった)フォール勝ちにはこだわらない。1点差であっても勝ちに行く」(吉田)、「派手な勝ち方は求めない」(栄和人・全日本チーム監督)という慎重さの中にも、攻める気持ちを忘れてはいない。世界の最高峰を6度も制した選手だけに、勝負の世界で一番大切なものを置き忘れることはあるまい。

 高田専務理事は「バンデュセンよりロシア(ナタリア・ゴルツ=
右写真)の方が強いんじゃないかな」と、金メダルの最大の敵は昨年世界3位の“ロシアの妖精”と分析する。一方で、「決勝は、バンデュセン相手に最後は必殺の高速タックルでマットにたたきつけてリベンジしてほしい。ギャフンと言わせてほしい」と期待する。

 日本が生んだ最高のレスラーなればこそ持っている意地。この意地と勇気があったからこそ、連勝をストップされた翌年、因縁の相手のベログラゾフを破って世界一に返り咲くことができた。組み合わせの関係もあるので、金メダルをかけた闘いという舞台で劇的なリベンジが実現するかどうかは分からないが、吉田にそれだけの勇気があると信頼しているからこその注文。日本レスリング界の男子史上最強レスラーから女子史上最強レスラーへ贈る熱きラブコールだ。

 「1度負けて、精神を強くさせてもらった」と口にしていた吉田は、7月28日の日本選手団の壮行会で「厳しい闘いになると思うが、連覇するために必死で闘いたい」と話した。北京のマットでは、勇気を振り絞っての必死の闘いを演じてくれるはずだ。そして、必ずや金メダルを手にしてくれることだろう。

(文=樋口郁夫)


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