【特集】北京のマットで完全燃焼! 残るは後輩との決着戦…66kg級・池松和彦(K-POWERS)【2008年8月21日】



 男子フリースタイルで唯一2大会連続五輪出場を決めた66s級の池松和彦(K−POWERS)は、健闘むなしく初戦で敗れ、敗者復活戦へ回るこのもなく北京のマットを終えた(右写真)

 日本レスリングチームのしんがりとして北京五輪のマットに登場した池松。「日本男子勢から20年ぶりの金メダルを」という富山英明強化委員長の悲願は、大会6日目を終わってまだ達成していなかった。金メダルの可能性は池松に託される状況での登場だった。

■前日のメダルラッシュの波に乗りたかったが…

 前日には、日体大の後輩の55kg級の松永共広(ALSOK綜合警備保障)が銀メダル、湯元健一(日体大助手)が銅メダルと、メダル獲得の伝統を死守した。そのメダルを池松は少しうらやましそうに、遠くから見つめた。でも、触らなかった。「自分で取ってやろうと思った」と闘志を燃やしてマットに立った。

 初戦の相手はグルジアのオタリ・トゥシビリ。昨年世界3位の実力者だが、池松も元世界3位の実績を持ち、海外経験は豊富。今年3月のアジア選手権(3位)での反省を生かして作戦を練ってきた。だが、“現世界3位”は強かった。「ビデオを見て強い選手だと思った」とトゥシビリのタックルを警戒していた池松だが、簡単に足を触らせてしまう。

 第1ピリオドはタックルを2回食らって4失点。第2ピリオドは延長戦でものにしたが、勝負の第3ピリオドでも「攻めようとしたところ」を逆に突かれて1失点。トゥシビリはディフェンスが強く、最後のがぶり返しも「ひとひねり足りなかった」と及ばなかった。

■1年前には考えられなかった北京五輪の舞台に立つ池松

 父・和義さんが「調子がいい、と言っていたので残念です。前日のメダルラッシュの波に乗れるかなと思ったのだけれど…」と言うように、誰もが池松の活躍を信じていた分、1回戦で終わってしまったことで物足りなさを感じた部分もあった。

 池松は「(相手のタックルは)警戒していた。第3ピリオドで足を取られたときは2点取られると思って、(自ら背中を相手に向けて)最小失点の1点に抑え、その1点を追うつもりだった」と勝ちに行く試合運びを展開した。だが、力及ばず初戦敗退に終わると、アテネ五輪からの4年の道のりが池松の気持ちを複雑にさせた。

 メダル確実で臨んだアテネ五輪では決勝トーナメント1回戦で悔しい逆転負け。心のどこかで、そのリベンジを誓っても、体が言うことを聞かない。“燃え尽き症候群”といった状態になってしまい2006年からは日本代表の肩書きも失った。「1年前の自分を思うと、北京五輪に立っていることが考えられない」。池松本人も、コーチ陣も、そして両親も同じ言葉を発した。「あの状況からよく立ち直ったよ」と日体大で池松を見守ってきた安達巧監督も感慨深そう。

■五輪が終わり、やるべきことは小島豪臣との決着戦

 「五輪が終わった。大きい大会に出るのはこれで最後だなと思った」。28歳で2大会連続で五輪出場を果たした池松は、選手としてやっと完全燃焼できた。それでも、忘れ物が一つだけある。最大のライバルであり、かわいい日体大の後輩でもある小島豪臣(周南システム産業)の存在だ。

 小島は2006年のドーハ・アジア大会2位をステップに、池松がスランプに陥っている時期には北京五輪の本命と言われた選手。小島が台頭してきたときは“世代交代”だとまで言われた。昨年12月の全日本選手権で2人は決勝で闘ったが、場外際の池松の攻撃で小島がひじを負傷。その影響もあって、2人にとっては不完全な状況で勝負がついてしまった。「もう一度、小島とやりたい。練習試合でもどんな形でも」と池松。12月の全日本選手権で実現するか。

 「レスリングが嫌い」と言った2年前。でも、第一線での選手生活の最後に出した結論は「好きだよ」−。北京五輪が終わったあとは、福岡大の助手としてレスリングに携わる。「たぶん、ずっとレスリングに携わっていくよ。面白いし」。2大会連続五輪戦士という誇りを持って、池松は次世代の金メダリストたちに夢を与え続けていく−。
(右写真=試合後、応援に駆け付けた新妻の由紀さんとともに)

(文=増渕由気子、撮影=樋口郁夫)


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