【特集】北京五輪で大活躍! 世界レスリング界ナンバーワン・ジャーナリストのビル・メイ氏【2008年8月23日】



 北京オリンピックの組織委員会プレスオペレーションの中のスポーツインフォメーション部門でレスリング担当を行ったのが元国士大コーチで本ホームページの英訳担当でもあるウィリアムメイ(本名ウィリアム・ロバート・メイ=通称ビル・メイ)氏。記者室で配布されるリリースには毎日、メイ氏が書いた見どころ原稿や大会結果が掲載された。

 メイ氏は全世界のレスリングジャーナリストの指南役も担当。レスリング取材に不慣れな記者たちに、質問のポイントをアドバイスするなど大活躍だった(右写真=国際レスリング連盟の総会で取材するメイ氏)

 北京五輪組織委員会がメイ氏に白羽の矢を立てたのは、メイ氏が少年時代から社会人になるまでレスリングをやり、その後も記者としてレスリングにかかわり続けていることや、“スピード命”の共同通信社で働いていた経歴を持ち、英語の読み書きが自由できるからだ。この条件を十分に満たすメイ氏が、オリンピックの“プレス長”としては世界中で一番の適任者だった。

 メイ氏は世界レスリング界のナンバーワンのジャーナリストとも言える。世界中のジャーナリストと情報交換をし、レスリング情報の最先端をいつもつかんでいる。国際大会になると、メイ氏の周りには国籍を問わず、多くの人があいさつに訪れるほど有名人。

 加えて日本選手からの信頼は厚い。それは10年前まで日本で国士大のコーチをしていたからだ。今大会の日本代表チームのコーチである和田貴広コーチと嘉戸洋コーチは手塩かけた教え子であり、本人は否定するが2人の恩師でもある。その教え子らが率いる日本チームはメイさんにとっても、想い入れが強い。

■母は青森県人。で自然に日本文化に溶け込んだ過去

 メイ氏は1952年に、青森県生まれの日本人の母と米国人の父との間に米国ミネソタ州生まれた、体格は米国人だが、顔立ちは日本人らしさがにじみ出ている。余談になるが、ポーランドの大会で青森県出身の伊調千春・馨姉妹と会った時、話し方などに“同郷のにおい”を感じたとか。

 幼少のころ、レスリングに出会い、高校時代はミネソタ州のチャンピオンの経歴がある。大阪学院大の英会話教師として来日。英語が堪能な関大の伴義孝氏(現全日本学生連盟会長)と知り合ってレスリングをやるとともに、ほかに柔道やサンボ、合気道などさまざまな格闘技を学んだ。

 その間の1977・78年には、当時は出場資格が日本国籍という規定が設けられていなかったレスリングの全日本選手権にも出場している。この5年間の日本生活がメイ氏の心の中に眠っていたもう一つの母国愛に火をつけた。1983年に上智大で博士論文を書くために再来日。レスリング愛も覚めやらず、大阪でお世話になった人たちの紹介で見つけた国士大で練習を重ね、選手を指導することになった。

 さまざまな格闘技を経験し、世界のレスリング事情に精通しているメイ氏のコーチングが、高校時代の無名選手が多かった国士大の選手を次々を強くさせた。メイ氏は“名コーチ”でもあったのだ(右写真=メイ氏と嘉戸洋コーチ)

 「私はスポーツインフォメーションのスペシャリストで、いわゆる情報の専門家です。私は知っている情報を選手たちに与えただけ。それを和田や嘉戸たちが自分の必要な情報だけをピックアップして、練習に反映した」と、“名コーチ”という肩書きは恥ずかしそうに否定したが、“根性練習”が定番だった日本にとってメイ氏のやり方は画期的だったようだ。

■現ルールにちょっと一言物申す!

 レスリング界のナンバーワン・ジャーナリストとして、現在のレスリングを愛情をこめつつ評論し続けるメイ氏。現行ルールには、メイ氏も言いたいことが少しある。誰でもチャンスがあるルールで番狂わせが生じやすく全体的に試合は面白くなるだろうが、抽選によって攻守を決めるなど複雑な部分も。ルールが短期間で激しく変わってしまうことがレスリングをマイナー化している原因の一つだ。

 「レスリングはマイナー、メジャー関係なくエキサイティングする最高の競技」と目を輝かせるメイ氏は、多くの人にレスリングの楽しさを分かち合ってもらうために、今回の仕事でも「分かりやすさがモットー」との方針を貫いた。世界共通語といわれる英語でも、誰でも分かるような表現をチョイスしている。「世界中が分かるように、わざと簡単に書いています」。(左写真=レスリング会場で活躍するメイ氏)

 それと同じようにレスリングも誰でもわかるようなルールにすることで興味を持つのではとメイ氏は説く。「世界にはすばらしい選手がたくさんいる。いいレスリング見せるルールがあればいいんじゃないかな」。レスリング界のご意見番、メイ氏の本音には納得。北京五輪が無事終了し、今後のルール改正にメイ氏らの意見は届くのだろうか。

(文撮影=増渕由気子、撮影=増渕由気子、樋口郁夫)


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