伝統の八田イズム


八 田 一 朗 会 長 の 思 い 出
日本協会会長・福田富昭 日本協会常務理事・今泉雄策

 東京五輪で金メダル5個を取り、世界有数のレスリング王国を築いた日本レスリング。その裏には、八田一朗会長(日本協会第3代=1983年没)の独特かつユニークな強化方法があった。

 のちの日本レスリング界をも支えた「八田イズム」は、一見して“スパルタ指導”ともとられた。確かに、その厳しさは半ぱではなかったが、極めて合理的なことばかりであり、そのすべてが強くなるために意義のあることだったといえる。日本レスリング協会の強化の基盤であり、世界一になった選手を支え、現代でもその精神は脈々と生き続けている。

 八田会長の残したすばらしい偉業と現代でも通じる強化法を紹介したい。(監修/日本レスリング協会・福田富昭会長、同・今泉雄策常務理事)



 (1) 負けた理由を探すな

 選手は試合に負けたとき、その理由を自分の実力以外の要因にもとめることがよくある。「夜眠られずに体調が悪かった」「食事が普段と違って力が出なかった」など。

 だが、これは負けを正当化する口実にすぎない。どんな時でも寝られるようにしろ、とばかりに、合宿では電気や音楽をつけっぱなしにした状態で寝らせた。時に、夜中にたたき起こし、点呼をとって、また寝らせた。こういう経験を積み重ねることで、どんな状態でも寝られるようなり、たとえ試合を控えて緊張していても、ぐっすり眠られるようになる。

 選手が「外国では米が食べられないから力が出ない」と言ったことがあった。合宿ではすべての食事がパンに代わり、「パンを食べて力を出るようにしろ」となった。
選手たちは負けた理由を訴えることができなくなった。



 (2) 完全フォール勝ちを支持

 八田会長の逆りんに触れることのひとつに、負けた理由をレフェリーのせいにした時があった。かつては、完全にフォールしていたにもかかわらず、それを認めずに「場外」とされた試合もあった。1974年イラン・アジア大会では、あまりにもひどい地元びいき判定に、日本チームは怒りのあまり試合を放棄した。現代では極端な地元びいき判定は行われなくなったが、それでも勝敗を審判の判定に求めることが多々ある。

 だが八田会長は「強いレスラーというのは、常に相手の上に乗っかっている。マットの中央で、がっちりと押さえこめば負けにされることはない」という信念を貫いた。昭和13年に刊行された「レスリング」で、「ジャッジやレフェリーの主観の問題であって、判定は絶対に公平には行われない。選手たちには、完全に敵をフォール出来なかったら負けと思えと言っている。完全に上からフォールしている者を逆に負けにされる様な事は、如何に無茶なレフェリーでもできない」と述べている。

 ルールの解釈が民族によって違うのは当然ということを受け入れていた。当時から国際感覚にたけていればこその行動であり、前項と同じで「負けの理由を審判のせいにするな」をいつでも貫いた。



 (3) 左右の平均


 人間は右利きと左利きに大別され、得意技となると左右のどちらかとなるのが普通だ。八田会長は「それじゃあ半分の力しか出ない」とし、たとえばタックルにしても左右の両方からの攻撃が自在に使えたら2倍の力になると考えた。

 これのマスターのために、練習で不得手な側からの技を反復して練習することのみならず、日常生活から利き腕と反対の手を使って行動することを課した。歯磨き、食事のハシを持つ時、服のボタンをとめる時、カバンを持つ時、電車のつり皮、大便の時のおしり拭きなど、あらゆるところで利き腕と反対の手を使うように意識させ、左右とも利き腕にすることを課した。勝つための可能性を日常生活においても追求する姿勢があった。



 (4) 夢の中でも勝て

 八田会長はよく「夢の中でも勝て」と選手を叱咤(しった)した。夢の中で化け物や強いヤツが出てきて襲われ、怖い思いをすることは誰にでもある。それらから逃れて目をさますと、ホッとし2度とそんな夢を見たくないと思う。

 しかし、夢の中ででも負けてはいけない。自分を襲ったヤツをもう1度夢の中へ引っ張り出し、立ち向かい、やっつけるくらいでなければ、本当の試合では勝てない。「誰にも負けない」という自信をつけるためには、夢の中であっても弱気にならず、強気一辺倒で戦う精神力が必要。夢の中ででも「負けない」という気概を植えつけた。

 さらに、この「自己暗示」ということを大事にし、「オリンピックで優勝した夢を見るようにしろ。金メダルを首にかけてもらう夢、メーンポールに日の丸が上がる夢などを見るように、自分自身に言い聞かせろ」と選手に要求した。これを毎日やれば、必勝の信念が湧いてこようというもの。自己暗示による強化方法だった。



 (5)苦手の克服

 選手にとって簡単に勝てる相手と練習することは楽しい。逆に、強い相手、なかなか勝てない相手と戦うのは嫌なもの。楽をとるのは人間の本性だ。だが、これでは本当の実力は身につかない。強い相手、苦手な相手にこそ飛び込んでいって練習しなければならない。

 八田会長が、海外渡航も自由でなかった時代でもあらゆる手段を尽くして海外遠征を実行したもの、世界のいろんなタイプと戦い、強い相手に立ち向かうためだった。何度も戦ううちに相手の弱点も見えてきて、攻略の糸口もつかめる。苦手な相手に積極的に向かっていかせる姿勢があればこそ、世界に名だたるレスリング王国を築けたのである。



 (6) ベン学の勧め

 八田会長の自宅にあったトイレは、用をたすだけでなく、勉強室・研究室という趣で設計されていた。1日に10分間トイレに入っているとすると、1年で3650分、60年間では5か月間となる。この時間を有効に使い、「1日1個の英単語を覚えれば1年で365個覚える」として、ベン学を選手に課した。一見すると強化に無関係なようだが、時間を大切にする精神を養うことで、練習時間を無駄にしない姿勢を持たせる意味があった。

 もちろん、レスリング選手は勉強に縁が遠い人間が多く、それでは社会で通用しないという教えでもあった。



 (7) 礼儀の重要性

 八田会長がマット上の指導だけに心血を注いでいたのでなかったことは、前項の「ベン学の勧め」でも分かるが、礼儀にも厳しかった。あいさつはもちろんだが、洋食のマナーといったことにも厳しく、渡航する選手には国内の一流レストランで実践練習させてマナーを覚えさせてから遠征させた。

 昭和20年代、30年代は洋式の食事マナーなど知らないのが普通だ。だが欧米へ行ってマナーに反する食べ方をすれば、「未開の国の人間」と見下され、マットの上でも相手に優越感をもたれてしまう。それを避けるためでもあった。

 東京五輪の際、ある国の選手がカメラで写真を撮り、その場でフイルムを取り出して「写っていない?」と騒いだことがあった。八田会長は日本選手に「このような国の選手に負けるのか?」と伝えた。私生活の未熟ぶりは、相手に優越感を持たせてしまう。一流の選手になるためには、マットを降りても一流の行動を望んだ。



 (8)マスコミを味方にしろ

 八田会長は早大の後輩でありプロレス・メディアのパイオニア、田鶴浜弘氏との交流の中でジャーナリズムの重要性を学んだ。情報化時代でなかった昭和20年代、30年代でも、強化にはマスコミの力が不可欠との考えを持ち、あらゆる手段でマスコミに載るための努力をしてきた。海外渡航が自由でなかった時代に無理をしてでもそれを実行することで、マスコミはそれを取り上げ、世間の注目の喚起につながった。

 「ライオンとのにらめっこで精神力を鍛える」「沖縄へハブとマングースの戦いを見せに行き、戦う魂を学んだ」といった話も有名だが、強化に直接の実効性があったかどうかは疑問。オリ越しににらみ返してくるライオンはいないし、観光客相手の見世物を見て戦う魂がつくとは思えない。しかし、世間の注目を集めることで選手を追い込み、奮起させるに十分な役割を果たした。

 男子バレーボールをミュンヘン五輪で金メダルに導いた松平康隆監督が、五輪で金メダルを取るために必要なことに「金メダル獲得を自分のことのように喜んでくれる人を1人でも多く作ること」を挙げたが、周囲からの応援こそが選手を奮いたたせるエネルギーになることを、八田会長はもっと古くから知り実践していた。

 耳が痛い記事があっても一切文句をつけず、レスリングに関する記事はすべて歓迎した。新聞記者には「批判記事でもいいから、毎日でもレスリングを書いてくれ」と注文し、周囲には「悪口も宣伝と理解する度量をもたないと、大きな発展は望めない」と説いた。

 日本レスリング界が報道規制をほとんどせずマスコミの取材を歓迎するのも、八田イズムの真骨頂。周囲からの注目と応援も強化の大きなエネルギーとして活用した。



 八田一朗(はった・いちろう)

 1906年6月3日生まれ、広島県出身。1929年(昭和4年)、早大柔道部の一員として米国へ遠征し、ワシントン大でレスリングと遭遇。帰国後、レスリング部をつくり、大日本アマチュアレスリング協会(現日本協会の前身)の創設に尽力した。1932年(昭和7年)のロサンゼルス・オリンピックにレスリング代表選手として出場した。

 その後、指導者に転身し、1951年(昭和26年)に日本アマチュアレスリング協会の会長に就任。以後33年間にわたって重責を務めた。在任中、日本は7度のオリンピックに参加し、合計16個の金メダルを獲得。そのユニークな指導方法は「八田イズム」として世間でも注目された。

 1965年には参議院議員に当選している。1983年(昭和58年)4月15日、肝硬変のため死去された。