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【特集】被災を乗り越え、インターハイにかける…仙台育英高&東北工大高(下)
【2011年6月19日】

(文=樋口郁夫)




 ◎東北工大高

 東北工大高
(右写真)は個人戦で5階級を制する実力を持ちながら、学校対抗戦でのインターハイ出場を逃した。それだけに、出場する5選手に上位入賞を目指す気持ちは強い。

 地震によってレスリング場のある2階建ての建物の2階天井が落ち、1階にあるレスリング場の壁にヒビが入って立ち入り禁止となった。仙台育英高と同じく地震のあとは練習できず、4月末になってやっと再開できた。

 3月末に予定されていた全国高校選抜大会(新潟市)には、学校対抗戦で仙台育英とともに出場を決めていた。開催されたとしても出場できたかどうか分からない状況だったが、学校対抗戦で宮城県から2校が参加するのは初めてのこと。宮城県にとっても大きな転機となりうる大会だっただけに、川畑仁監督は「残念でした。どこまで通じるか、ぜひともやりたかった」と話す。

 部員の中には自宅が全壊して住めなくなり、避難所に身を寄せた選手もいた。川畑仁監督も東松島にある実家の1階が全壊。被災直後はレスリングどころではない状況だったと思われるが、川畑監督の母校・日体大の先輩、同期生、後輩の何人かがすぐに支援物資を運んでくれ、声をかけてくれた。「ありがたかった。大きな力になりました」−。
(左写真=インターハイ個人戦出場の選手。左から60kg級・坂本賢、120kg級・佐藤拓真、74kg級・中野遼太、50kg級・佐々木優、55kg級・橋浦由弥)

■家を壊され、祖父を亡くしながらもインターハイ2年連続出場を決めた橋浦由弥選手

 部員は、ふだんはきついと感じる練習が、それをできることがどんなに幸せなことかを感じてもらうことができたプラス面もあった。練習環境に不自由したことはマイナスばかりではない。それがゆえのプラスも間違いなくあった。川畑監督は「被災をハンディとは考えず、プラス材料としてやっていきたい」と、ポジティブ(肯定的)な考えを持つ。

 74kg級の中野遼太主将
(右写真)は「練習できない期間には、正直言って焦りがありました。全国(全国高校選抜大会)で力を試してみたかったし…。その分、練習できるようになった時に、今まで以上の力が入りました」と振り返る。学校対抗戦でのインターハイ出場はならず、主将として無念の思いがあるようだが、「その分、個人戦で頑張りたい」と闘志を燃やす。

 55kg級の橋浦由弥選手は、「津波で街が消えた」とまで言われた名取市閖上(ゆりあげ)にある家が壊され、チームの中で唯一避難所生活を経験した選手だ。また、祖父が亡くなった。避難所にいたのは1日だけだったが、しばらくは母の職場や友人の家に寝泊りさせてもらう生活。そのハンディにもめげず、55kg級の県予選を勝ち抜いて2連覇を達成。昨年に続いてのインターハイ出場を決めた。

 「地震のあと2週間は気持ちが盛り上がらなかったです。でも、レスリングは続けたかった」。マットに戻ってきた時は、「負けていられない」という気持ちになったという。「練習ができなかった分、今の練習で取り戻したい。被災地の力を見せたい。タックルで攻めて攻めるレスリングをやりたい」と、インターハイでの大暴れを誓った。

 川畑監督は今月22〜24日の東北総体(岩手・八幡平市)で選手のレベルを確認し、7月には仙台育英との合同練習のほか、関東への遠征で強化。十分に強化してインターハイへ臨むという。




 宮城県のレスリングの歴史は古い。1952(昭和27)年の宮城国体に向けて同好の志が活動をスタートし、1954(昭和29)年に高体連に加盟した。1957年(昭和32)年には松原正之(仙台高)がインターハイと国体で優勝。日大へ進んで実力を伸ばし、1960(昭和35)年のローマ五輪フリースタイル・フライ級に出場。日本選手唯一のメダルとなる銀メダルを獲得した。

 その後、1963(昭和38)年には仙台高がインターハイ団体優勝を遂げ、1973(昭和48)年には全国高校選抜大会で仙台育英高が優勝。この頃からしばらくは学校対抗戦での上位入賞は普通にあり、個人戦でも全国王者や3位入賞選手は数多く続いた。

 しかし最近は勢いが止まっているのが現実。インターハイ学校対抗戦での3位入賞は、川畑監督が3年生でレギュラーだった時の1990(平成2)年の東北工大電子工高(現東北工大高)の3位を最後に生まれておらず、平成に入ってのインターハイ個人王者は2006年の相澤勝人(仙台育英)だけだ。

 高校の実施校は仙台育英、東北工大、東北学院の3校のみ(宮城工は女子のみ。松島は今年部員0へ)で、団体戦が組めるのは2校だけ。選手数は、最盛期には100〜120選手くらいいたが、今は県全体で30選手前後だという。
(左写真:両校主将同士のスパーリング)

 キッズ・クラブは2006年と2009年にひとつずつスタートして計3チーム。しかし、ご他聞にもれず中学で途切れるため(今月の全国中学生選手権は男子2選手、女子1選手のみの出場)、高校へとつなげられないのが悩みだ。

 それでも指導者の思いは熱い。「県全体がひとつになって強化していきたい」(東北工大・川畑監督)、「地域のつながりで、柔道からレスリングをやる選手などを増やしていきたい」(仙台育英・小石部長)、「まず競技人口を増やしたい。人口が増えれば、レベルも自然に上がる」(同・森監督)と、ライバルであるとともに同志として県全体のレベルアップにかける。

 被災によって大きなハンディを負ったのは間違いない。しかし、幸いにも壊滅的な被害ではなく、今はレスリングに打ち込める環境に戻った。東北人特有の粘りでハンディを乗り越え、被災地に希望をもたらしてもらいたい。

 3月の全国高校選抜野球大会の開会式で創志学園高・野山慎介主将による感動の選手宣誓は、野球以外のスポーツにも当てはまる。「人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです」−。



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