【年始特集】中京女大から至学館大へ! 女子レスリング最強軍団の過去・現在・未来(2)【2010年1月3日】

(文=樋口郁夫)

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 1992年に坂本涼子が世界選手権57kg級で優勝し、部創設以来の目標を達成した杉山氏。だが、オリンピック種目でない女子の快挙は、必ずしも周囲に受け入れられるものではなかった。「女子をオリンピック種目にしなければならない」。杉山氏は、中京女大の栄光を非五輪種目の中での栄光にしたくはなかった。

 1990年代、女子レスリングの五輪種目入りの最大の功労者である福田富昭・現日本協会会長(当時全日本女子連盟理事長ほか)に次いで熱心に動いた一人に杉山氏がいた。杉山氏の全日本女子連盟での役職は広報委員長。しかし、国際交流委員長ではないかと思えるほど、世界の女子レスリングに目を向けていた。

 メールなどない時代、電話やFAXなどを駆使してあらゆる国の指導者とパイプをつくり、選手を送ったり、受け入れたりした。交流のあった国はスウェーデン、ノルウェー、カナダ、米国、中国、台湾、韓国、ニュージーランド、ベネズエラ、ギリシャ…。「レスリングは世界的なスポーツ。ネットワークを駆使して、世界的に女子レスリングを発展させなければならないと思いました」。

 また、日本のレスリング界でホームページをスタートさせたのは、日本協会よりも全日本女子連盟の方が早い。全日本女子連盟広報委員長として女子レスリングの普及啓蒙にも尽力していた杉山氏が、コンピューター時代の到来を予測し、1999年4月、連盟から予算を認めてもらい、ホームページをいち早く手がけた。日本協会のホームページがスタートしたのが2001年8月であるから、2年4ヶ月も先取りしていた(右写真=1999年世界女子選手権を報じる全日本女子連盟ホームページ)

 当初は速報性というより、とにかく記事を載せるというホームページで、試合結果は数日〜1週間以上も後に掲載されていた。徐々に速報に力を入れ、2000年9月にブルガリアで行われた世界女子選手権では、初めて現地からの更新を手がけ、試合結果が日本からリアルタイムで知ることができるという画期的な試みが成功。日本のレスリング界に新鮮な衝撃を与えた。

 その経験とノウハウが日本協会に引き継がれ、現在の協会ホームページが存在している。常に世界を見つめ、時代を追っていた杉山氏の力がなければ、このホームページも、スタートがもっと遅く、違った形になっていたことと思う。

■最初のライバル・中国をたたきつぶせたのは、杉山氏の力が大きい

 話を1990年代前半に戻すが、杉山氏の積極外交は、強化の面でも役立っていた。坂本ただ1人が優勝した1992年の世界選手権では、前年から参入した中国の猛威が吹き荒れていた。厳選しての少数参加であるため、国別対抗得点は日本の方が上をいったが、優勝数は中国が4階級で日本を大きくリード。日本対中国は4試合あって、中国が3勝1敗と勝ち越していた。

 翌93年の世界選手権でも、日本の2階級制覇(44kg級・吉村祥子、70kg級・浦野弥生)に対し、中国は3階級に出て3階級で優勝。辛うじて出場数に救われて国別対抗得点の優勝を保っていたものの、実質的には中国が女子レスリングの最強国だったと言っていい(左写真=日本にとって脅威の一人だった44・48kg級世界チャンピオンの鐘秀娥)

 「このままでは、女子が五輪種目になっても、日本は栄光をつかむことはできない」。打倒中国が日本の課題となった。杉山氏は行動を起こした。1994年3月、中京女大の選手のほか、全日本チャンピオンを中心とした選手に呼びかけて中国の最強軍団、北京体育学院へ遠征を敢行。あえて強豪と闘わせる方策をとった。

 最初はどこともなく中国選手への恐怖心を持っていた選手たち。しかし実際に練習してみると、互角に闘える。特別な練習をしているとさえ思われていたが、日本選手と同じ練習だ。「あの遠征で、選手の間から中国選手への恐怖心が消えていきましたね」。

 同年秋には中国の世界チャンピオンを日本に呼んで合同練習。神戸で行われた全日本女子オープン選手権にも出場させ、中国選手と闘うことを特別なことと思わせない努力をした。浜口京子が初めて外国選手と闘ったのは、この大会の王朝爾(1993年世界チャンピオン)との一戦である。

 2000年五輪が北京ではなくシドニーに決まったこともあり、中国の女子レスリングは大きく後退。日本は再び世界一に返り咲くことができた。

■1996年4月から栄和人体制へ。杉山氏は肩書きに固執することなく中京女大の栄光の構築を託した

 一方でこの時期、中京女大は低迷期を迎えていた。坂本涼子が世界チャンピオンになった翌93年に結婚し、出産のため休養へ。全日本チャンピオンに輝く選手がいなくなった。杉山氏の全日本コーチとしての行動によって中京女大の指導がおろそかになったと考えるのは当たっていない。当時(1994年)の杉山氏は48歳。マットの上で若い選手を相手に連日の熱血指導をするには無理のある年齢だった。現場を任せられるコーチが必要だったのである。

 そんな時に来てくれたのが、京樽で指導手腕を発揮していた栄和人・現監督。京樽が社の方針でレスリング部をなくしたことにより、福田富昭会長の進言もあって1996年4月に中京女大付属高校(現至学館高)に体育教師として赴任。中京女大レスリング部を見ることになった。

 杉山氏は自らが務めていた監督の座を、何ら固執することもなく譲った。理由は2つあった。ひとつは、栄・現監督は否定するかもしれないが、彼の心がまだ東京に残っていたこと。もうひとつは、彼ほどの優秀な指導者を一チームのコーチに置いておいておいてはならないと思ったこと。

 「おまえは、もう一国一城の主なんだよ」。そうした気持ちになってもらわなければ「やる気をなくしてしまうかもしれないと思った」と言う。もっとも、これは高校の校長から「高校教員としての仕事も満足にやっていないうちから、大学の監督とは何だ」というクレームがきてしまい、表向きはそうならなかったが、杉山氏は部の指導を栄監督に託し、中京女大の栄光の構築を彼に託した(右写真=中京女大の監督を退いても全日本の指導者として情熱を注いだ杉山氏。両脇は若き日の浜口京子と山本聖子)

 栄“監督”は、週15時間の授業を受け持っていた。名古屋市にある付属高校で授業や会議を終えた後、大府市にある中京女大に移動して練習へ。普通の会社員としての生活をしたことのない男にとって、初めて経験する実社会+練習。「毎日睡魔との闘いだった」という中から、坂本日登美(現自衛隊)という逸材を見つけて気持ちを奮い立たせ、中京女大を最強軍団へ育てていく。(続く)


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