【特集】打倒豊田に燃えた日々に悔いはなし!…自衛隊の最過酷レンジャー部隊で活躍する安原隆さん【2009年3月5日】



 2月28日〜3月1日に自衛隊朝霞駐屯地内で行われた全自衛隊大会。60kg級に、かつてグレコローマン55kg級(52・54kg級)で活躍し、今は自衛隊の中で“最も過酷な部署”と言われる第一空挺団に所属する安原隆さん(33歳=左写真)の姿があった。

 試合は本戦で敗れ、敗者復活戦でも負けて上位進出はならなかったが、自衛隊の中でも屈指の努力家として記憶に刻まれている身長160cmのガッツマンの久しぶりのマット上の勇姿に、宮原厚次監督らコーチ陣は懐かしそうにファイトを追った。

■高校時代は1年後輩の豊田雅俊選手に全く歯がたたなかった!

 第一空挺団とは、陸上自衛隊の千葉・習志野駐屯地に配備されている日本で唯一の落下傘(パラシュート)部隊。有事の際には国会議事堂や皇居を真っ先に保護するほか、日本の領土が侵略・征服された時には、空から攻め入って敵陣を制圧する部隊。災害で陸路が遮断され、ヘリコプターも着陸できない場所へ救助に駆けつけるようなケースもで出動する。日本の安全や災害の救助には欠かせない部署だ。

 野宿は当たりまえ。野ウサギのみならず、ヘビやカエルを捕まえて食べながら山中を進むことも余儀なくされる。もちろん武器を持った敵と闘うこともありうるので、格闘能力も必要。体力・精神力とも人間の極限のものが要求され、その訓練の過酷さに、「空挺団」をもじって「狂ってる団」と言われるほど。

 そんな過酷な訓練を耐え抜き、レンジャー部隊員として活躍できるようになった原動力は、間違いなくレスリングで鍛えた精神力だ。自衛隊のコーチは「体育学校で汗を流した人間が、その経験を生かし、いろんなところで貴重な戦力として活躍してくれるのは、本当にうれしいですね」と口をそろえる。

 安原さんは島根・隠岐島前高出身。主にグレコローマン52kg級で闘っていたが、1年下の同級には2年連続で高校グレコ3冠王(JOC杯、全国高校生グレコローマン選手権、国体)に輝くことになる豊田雅俊選手(現全日本コーチ)がいたこともあって、高校時代に全国タイトルはなし。豊田がいなくとも、全国王者には遠かった選手だ。

 1993年10月の徳島国体少年の部では2回戦で豊田(以下、回想部分については敬称略)と対戦し、3分44秒、豪快な俵返しで投げられテクニカルフォールで敗れている(右写真=豊田に投げられたシーンが機関誌「月刊レスリング」の表紙に使われた)。この時点で両者の実力差は、オーバーな表現でなく天と地ほどあっただろう。

 3年後、安原が国士大3年、豊田が拓大2年の時に行われた全日本大学グレコローマン選手権の2回戦で対戦した両者は、豊田の俵返しが3度決まり、わずか1分49秒でテクニカルフォール勝ち。安原が豊田を破る選手に成長することを予感した人間はいなかったのではないか。

■7年かけて宿敵を撃破! アテネ五輪まであと1勝だった

 安原はこの大きな差にもあきらめることなく、地道に努力を続けた。自衛隊に進み、だれもが認める勤勉さで練習する毎日。どのコーチも素質など感じていなかったが、「努力がすごかった」と振り返る。そして2000年全日本選手権。豊田は佐々木昌常(自衛隊)のが城を越えることができず同年のシドニー五輪出場を逃しており、気持ちの落ち込みがあった様子。この機を逃さず、準決勝での対戦では安原が3−2で勝ち、実に7年ごしに宿敵越えを果たした。

 1度だけなら、「まぐれ」かもしれない。だが2001年全日本選手権、2002年全日本選抜選手権とも勝って3連勝となれば、だれもが「実力逆転」と認める。「どうやったら豊田に勝てるかって、一心不乱に打ち込みましたね。研究もしました」。周囲から見たら埋めようもない差だったが、諦める気持ちは全くなかった。「諦めていなかったからこそ、自衛隊に進みました」−。

 2004年アテネ五輪の日本代表争いは、村田知也を含めて3人の闘いへ。その決着戦となった2004年の全日本選抜選手権は、安原が準決勝で村田を破り、決勝で豊田を破って優勝(左写真)。アテネ五輪へ「あと1勝」と迫った。しかし豊田とのプレーオフで敗れ、無類の努力家の五輪出場は消えた。

 悔しい結果に終わったが、安原さんはこの試合でレスリング人生にすっぱりとピリオドを打った。五輪に行った豊田選手はその後もレスリングを続け、村田選手は昨年12月の全日本選手権にも出場するまだバリバリの現役選手。体力的には、あと4年間はできたはず。無念の思いを4年後に晴らしたい気持ちはなかったのだろうか。

 安原さんは「レスリングはアテネ五輪まで、と決めていました。オリンピックには行けませんでしたが、最後に優勝することができて、その面では満足でしたから」と説明した。「アテネ五輪まで」という気持ちが偽りではなかったからこそ、ふんぎりがついたのだろう。「幸せなレスリング人生をおくれましたから、悔いはありません」と言う。

■判断が遅れると8秒で地面に衝突するパラシュート降下

 新たな人生に臨むにあたり、興味があった空挺団転属を希望した。「レスリングしかしたことがなかったので、一般教育からして戸惑うことが多かったですね」。だが、持ち前のガッツで困難を乗り越えたのは想像に難くない。

 空挺団に所属すると、まず習志野駐屯地で飛び降りる訓練を受ける。1999年6月に全日本チームが体験入隊し、いくつかの訓練に参加したが(右写真:高さ11メートルの降下台から飛び降りる選手=画像処理しています)、一般の人にはとてもできない厳しい訓練の連続が待っている。ここで模擬降下を十分に練習し、やっと空を飛ぶことになる。

 パラシュート降下というと、高度4000メートルの高さから飛び出すスカイダイビングを連想する人も多いだろう。だが、敵陣や被災地に飛び降りるには“空中観光”の必要はない(ただし、隠密で侵入する場合はヘリコプターの音が聞こえない4000メートル級の上空から飛び降りる)。

 通常は320メートル上空からの降下。東京タワーの頂上くらいで、もしパラシュートが開かなかったら約8秒で地面に衝突する高さ。本パラシュートが故障で開かなかったら、瞬時にして予備パラシュートを開かなければ地面に激突する。4000メートル上空からのダイビングに比べて、どちらがどうとは言えないが、とにかく勇気のいる仕事だ。

 いざという場になって全身が硬直し、踏み出せない隊員も少なくないという。そんな時は、教官が「勇気を出せ」などと言って叱咤(しった)すると思われるが、そうではなく、「訓練し直して、またにしようか」と声をかけることの方が多いのだという。「そうします」と言って全身の硬直が解けたのを見計らって、ポンと突き落とすのだそうだ(パラシュートは自動的に開く)。

 一度「怖い」という気持ちを持ってしまうと、どんなに再訓練しても飛べないという。とにかく1度やらせることが必要。「たいしたことない」と分かれば、次もできる。本番を経験することこそが自信をつける。この論理は、人生の多くに通ずることでもあろう。

■「豊田がいたから、今の自分がある。豊田には感謝しています」

 話はそれたが、安原さんは初めて飛び降りた時のことを「すごく感動しました。全日本選抜選手権で優勝した時のような気持ち。パラシュートが開いていくのを見て、うれしかったです」と振り返り、「何度も訓練やっていました。その通りにやっただけです。(降下を指示する)ブザーが鳴ったら、条件反射的に飛び降りました」とこともなげに話す。好きなだけではできまい。打倒豊田に燃え、努力した精神力と人生の自信があればこそなのではないか。

 「パラシュートが2つとも開かなかったら、という不安は?」という問いに、「自分のパラシュートは絶対に開くって信じています」ときっぱり。その信念も、豊田を破る日が来ることを信じて燃えた気持ちと相通ずるものかもしれない。

 そんな安原さんにとって、全自衛隊大会は1年に1度、青春を燃やした日々を思い出し、体で味わうための機会だ(左写真=敗者復活戦で闘う安原さん)。空挺団にマットはなく、練習も十分にはできないが、「この大会は毎年出たいです。やっぱりレスリングに携わっていたい。いずれ、体育学校とかでまたレスリングに接してみたい」と言う。

 「豊田がいたから、今の自分がある。豊田には感謝しています。全日本のコーチとして、いい選手を育ててほしいですね」。1女1男の父親。この大会にも応援に来てくれ、私生活も充実しているようだ。

(文=樋口郁夫)


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