【特集】3度の大けがを乗り越え完全復活へ…男子フリースタイル66kg級・小島豪臣(K-POWERS)【2009年6月18日】



 オリンピックは実力とともに運を兼ね備えてなければ出場できない―。北京五輪に最も近い位置にいながら、出場を逃した男子フリースタイル66kg級の小島豪臣(K−POWERS=右写真)は、まさに“北京五輪の運”が足りなかった選手だった。

 2004年の天皇杯全日本選手権60kg級でアテネ五輪銅メダリストの井上謙二(自衛隊)に勝って優勝。1階級上げた2005年の全日本選手権で世界3位&アテネ五輪出場の池松和彦(当時K−POWERS)に黒星をつけた(最終的には3位)。2006年に明治乳業杯全日本選抜選手権とプレーオフで勝って世界選手権(中国・広州)へ初出場し、1勝をマーク。同年12月のドーハ・アジア大会では有力選手を抑えて銀メダルを獲得。当時、小島は北京五輪へ向けて、フリースタイル中量級の看板選手だった。

 だが、2007年から小島は神様に見放されたかのように次々と大けがを負うようになる。2度目の世界選手権をかけた2007年の全日本選抜選手権では、2回戦で大胸筋を断裂。わずか半年で復帰するも、12月の全日本選手権では決勝の池松戦で小手投げで場外に振られた際に、左ひじを負傷。

 池松が2008年3月のアジア選手権代表になったが、「北京五輪は自分が出る」と小島は逆転代表を信じ、アジア選手権当日は韓国で合宿を張っていた。「池松は途中で負けたようだ」と“吉報”が入り、ますます練習に力が入る小島だったが、優勝した北朝鮮が前年の世界選手権に出ていなかったなどの理由で、「池松が3位ながら五輪代表に決まった」という知らせが入ると、目の前が真っ暗になった。

■レスリングの環境を失うピンチをライバル・池松が救う

 2008年の全日本選抜選手権で優勝するが、周南システム産業との契約も満了し、退職することに。小島はレスリングの環境を失ってしまう(左写真=2006年アジア大会で銀メダルを取った小島だが…)。

 一方の池松は、K−POWERS所属から北京五輪後は福岡大の助手として地元に帰ることになった。4歳後輩の小島が山口国体要員として山口県に拠点を移すという話を聞くと心が動いたという。「まだ日体大で練習を積んだほうがいいと思った」と池松。そもそも、池松は北京五輪出場を決めたときでも、「アジア3位でオリンピックが決まってしまって、小島に悪いことをした」と後ろめたいコメントを発している。

 「小島は大学の後輩だし、頑張り屋さん。普通の選手だったらそこまで世話をしなかったかも」と、同階級の小島をK-POWERSの後継者として社長に紹介した。

 晴れてK−POWERS所属としてレスリングを続ける環境を手に入れた小島は、12月の全日本選手権では新チャンピオンとして君臨する予定だったが、2度あることは3度ある。

 鬼門の2回戦で佐藤吏(ALSOK綜合警備保障)に第1ピリオドのラスト1秒で右腕を持っていかれて、右ひじを負傷(右写真=試合には勝ったが…)。準決勝は棄権するはめになってしまった。またも試合中のけがによる離脱。小島は自分を責めた。「吏にけがをさせられたとは思っていない。自分が最後に気を抜いてしまったから」。

■低迷の原因は厄年だったから?

 アジア2位になって以降、3度も大舞台でけがに見舞われた小島。「この2年間は、勝負の厳しさを知りました」と練習の取り組む姿勢から改めた。「スパーリングでは集中力を切らさないように」と、試合のつもりでラスト1秒まで気を抜かない。幸運にも、以前は格下選手だった学生たちが、力をつけてきているため、いい練習が積めている。

 「実は、2007年は厄年だったんですよ。(2008年の)後厄も終わったし今年から大丈夫だと思う」。3度の大けがを乗り越えて、小島が再び世界を目指す。

(文=増渕由気子)


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