【特集】押立吉男代表亡きあとも強さ変わらず…大阪・吹田市民教室【2009年6月27日】

(文=増渕由気子、撮影=矢吹建夫)


 日本協会の副会長だった大阪・吹田市民教室の押立吉男代表が亡くなって約半年が経った。6月13〜14日には水戸市で沼尻直杯全国中学生選手権が行われ、吹田市民教室所属の選手も7選手が参加(右写真)。女子52kg級の坂野結衣(大坂・青山台)と男子59kg級の伊藤和真(大坂・山田)が優勝し、坂野は茨城県知事賞を、伊藤は大会会長賞をそれぞれ受賞。男女ともに優勝者を輩出したクラブは吹田市民教室だけ。押立代表亡き後も吹田の強さは変わっていなかった。

■押立代表亡き後、中学は伊藤順次監督が指導

 吹田市民教室は特定の道場を確保しているわけではなく、市立体育館など4つの練習場を週決めで借りながら運営している。2002年に押立代表が吹田市民教室の代表以外の多くの要職を退いたあと、毎日の練習は押立代表が見守っていた。

 亡くなった後は中大レスリング部OBの伊藤順次監督(左写真)が中学生部門の監督となり、南條匠コーチ、さらに昨年から藤本健太コーチ、山口徹馬コーチなどが曜日交代で指導に当たっている。いずれも仕事を持っているため教室につきっ切りとはいかないが、コーチ陣たちで密に連絡を取り合い、子どもたちが安心して通える環境を整えている。

  伊藤監督は、「押立さんが亡くなって変わったところはありますが、僕たちなりにやっています」と胸を張る。今大会は伊藤監督と南條コーチ、そして若手コーチの筆頭・藤本コーチが仕事の都合をつけて大阪から遠征してきた。伊藤監督の愛息である伊藤和真が優勝したことは、うれしかったに違いない。

 5月にもまな娘の伊藤友莉香(環太平洋大)がアジア選手権に初出場初優勝の快挙を成し遂げた。「本来の選ばれ方ではないので」と手放しには喜ばなかったが、「もともとは弟の方が成績が良かった」と言う。姉の快挙に弟・和真が刺激を受けて全国中学生選手権への集中力は高まったようだ。

■昨年から押立代表の教え子、藤本健太コーチが加入

 変わったことといえばスタッフ陣だ。昨年からコーチに加わった藤本コーチは、この大会の1995年43kg級と1996年51kg級のチャンピオンの経歴を持つエリート選手。大阪・近大付高〜日大を経て実業団で活躍し、昨年、地元・大阪に戻ってきたことを契機に自身のレスリングの原点である吹田市民教室のスタッフに入った。その裏には押立代表の“遺言”があった。

 藤本コーチ(右写真、選手は伊藤和真選手)が教室に通っていたのは1990年代前半。「僕らがいたころは、コーチ陣がたくさんいた」(藤本コーチ)が、2年前に帰郷したときはその数も減っていて、体調が悪そうな押立代表が忙しそうにしていた。

 子どもたちの面倒を直接見ることを生きがいとしていた押立代表だったが、「これからは、若い人間らがやっていかなければなあ…」という言葉を口にしたのだ。その“遺言”は藤本コーチの胸に突き刺さっていた。

■“邪悪”なスタイルで生徒の心をわしづかみ! “兄ちゃんキャラ”で子ども達を引きつける藤本健太コーチ

 昨年7月に地元・大阪に戻り、教室に顔を出すと、いつもどおりに押立代表がいた。藤本コーチは当時を「若い人間が戻ってきて、うれしそうにしていました」と振り返る。その後、藤本コーチは、仕事の合間をぬって指導をするとともに、吹田市民教室の看板を背負って9月の大分国体、11月の全国社会人オープン選手権、12月の全日本選手権に出場。社会人オープンではフリースタイル66kg級で優勝し、大会MVPにも輝いた。

 小さい頃、プロレス好きで手がつけられないほどやんちゃだった藤本コーチは、「今でも僕は子どもですから」と話す。伊藤監督に「邪悪なコーチ」とあだ名をつけられているが、その“邪悪さ”が、子どもたちに人気を博している。

 子ども目線で選手たちを指導し、話しやすい“兄ちゃんキャラ”全開で子ども達をひきつけ、その話術で最後はレスリングの魅力を浸透させてしまう。大会終了後、藤本コーチの熱弁を子どもたちは目を輝かせながら、しっかりと聞いていた。

 伊藤監督を中心に、若手コーチも育っている吹田市民教室の新スタッフ陣。押立代表も天国で満足な表情を浮かべているに違いない。


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