【特集】父母の熱き思いとともに、スペシャルオリンピックス採用への闘いがスタート【2009年7月10日】

(文・撮影=樋口郁夫)



 7月5日、ダウン症児と自閉症児を対象とした初めての大会が早大レスリング場で行われ、29選手が熱闘を繰り広げた。早大の太田拓弥コーチ(左写真)が、ダウン症児・自閉症児の成長を助け、夢を与えようと取り組んだ大会(太田コーチはワセダクラブ「わくわくレスリング教室」を主宰)。参加した父母は、この試みに一様に感謝し、太田代表の「スペシャルオリンピックス(知的障害者のオリンピック)の実施種目にしたい」という夢をかなえるべく、熱い思いを寄せている。

 高校生以上中量級の部で2位となった蓮沼淳選手(ワセダクラブ=22歳)の母・孝子さんは「練習では気力もなくやることが多いのに、試合ではみんなのファイトを見て闘志が湧いてきたんでしょうね、最後まで諦めずに闘ってくれ、びっくりしました」と、わが子の頑張りに驚く。「大会に出る、勝つ」という目標があってこそ頑張る気持ちが出てくる。指導の現場一筋にやってきた太田コーチが、慣れないながらも必死に大会運営に挑んだ努力が報われようとしている。

■近所だから行ったレスリング教室に、4年間通い続ける

 レスリングとの出会いは4年前、日本ダウン症協会からダウン症児のためのレスリング教室が開かれるという案内をもらい、「近所だし(徒歩約10分)、せっかくの機会だからやらせてみよう」と思ったことに始まる。「集まりも少ないだろうから…、という気持ちもあった」とも打ち明ける。しかし4年間通い続け、試合に出るまでにいたった(右写真=孝子さんと淳さん)

 レスリング生活を通じ、「粘り強さや諦めない気持ちなどが養われた」そうだ。レスリング以外にも、ダンス、ショートテニス(テニスボールよりもやや大きめなスポンジボールと軽いラケットに、通常のテニスコートよりも小さなバドミントンコートを利用して行うテニス)、卓球などもやっており、その相乗効果と思われるが、それでも「4年間、よく続きましたね」と、ワセダクラブに感謝の気持ちを表した。

 ダウン症とは先天的染色体異常症の一種で、知的、身体的発達・成長に遅延などが伴う症状。医学が進歩している現在、ダウン症かどうかというのは出産直後に分かるのだという。夫には、すぐに医師から告げられたが、孝子さんには体力が回復したあと伝えられた。「どうして? というのが最初の気持ちでした。検査が間違いじゃないかと思いました。3週間後にはっきりした検査結果を見せられ、受け入れなければなりませんでした」。

 とはいうものの、簡単にできることではなかった。「健常者の中に入ると、『自分ばかり…』という気持ちになってしまいました。公園に行っても、みじめな気持ちになりました。でも、同じ境遇の人との交流の中で、みんなで頑張っていこうね、という気持ちになっていきました」。1年、2年と経つうちに、引け目を感じないまでになり、わが子の成長の手助けに力を注ぐ毎日が続いた。

■ダメな子にも辛抱強く接してくれる太田拓弥代表

 ダウン症の子は筋力が弱く、体力的に弱いのが普通なので、「とにかく頑張らせたかった。小学校を卒業するころまでは、必死で育ててきました」と振り返る。だからこそ、「こんなに走り回り、飛び回り、逆立ちしてという姿が信じられないんですよ」と言う(左写真=決勝で闘う蓮沼さん)

 淳さんは今では仕事もやり、普通に社会生活を営んでいる。孝子さんはこの先、多くのことは望まず、「現状維持で頑張ってほしいです」と言う。一方で、太田代表の抱く壮大なロマンには全面協力の構えだ。

 「教え方に心がこもっています。ダメな子に対しても辛抱強く接してくれる。メールで頻繁に連絡をくれ、愛情をもって子供達に接してくれています」と言う。練習のある土曜日や日曜日は、他の予定と重なることが多いそうだが、レスリングを選んでくれるそうで、「太田先生の力ですね」。だからこそ、太田代表の夢をサポートする。

■元全日本3位の小林弘美さんが紹介

 この大会は、ダウン症児だけではなく自閉症児をも対象とした大会でもある。中学生中量級で優勝した関将太選手(ワセダクラブ=12歳)は広汎性発達障害という障害があり、多動と自閉の2つの症状があった。「勝負ごとで負けると、負けた事実を受け入れることができず、大騒ぎして暴れ、人をたたいたりする子でした」と母・さゆりさん(右写真=さゆりさんと将太君)。昨年9月に岐阜・高山で行われた交流戦「高山オリンピック」では、太田代表とともに必死に押さえたというエピソードもある。

 「体力はあって、かけっこも速かったのですが、暴れられたら困ると思い、スポーツはやらせられませんでした」と言うが、そんな子にレスリングを勧めたのが、小学校4年生の時の担任の小林弘美さん。京都・網野高〜青山学院大でレスリングをやっており、2005年全日本選手権48kg級3位の実績を持っている。

 小林さんは校長先生の反対を押し切って学校内でこの教室を宣伝し、埼玉(大宮)〜高田馬場という“長距離”になったが、関君のほか1人が通うようになったという。「障害によっては十分に注意しながら運動をしなくてはいけませんが、レスリングを通して運動する楽しさや体を動かす感覚、家族以外とのコミュニケーションがとれるといいな、と思いました」と話す。

■太田拓弥代表のロマンがスタート

 通わせてみると、「勝つために何をしなければならないか、とかを考えることができたみたいです」と言う。勝つこともあれば負けることもあるのがスポーツ。思い通りにいかなければ暴れるという性格が消えつつあり、努力する姿勢が見えてきたという。「中途半端な教室ではなく、安心して預けられます。それがよかったのだと思います」と、太田代表のこの教室にかける情熱に感謝の気持ちを表す。

 ただ、1回戦ではカッっとなってキックが出てしまった。それでも「ボク、間違ったことをしてしまった。ごめんなさい」と振り返り、謝ることができるようになった。さゆりさんは「負けた時に自分の気持とどう折り合いをつけるかとか、相手ときちんと握手するというマナーとか、学んでいかなければならないことは多い」と話しながらも、子の成長が楽しみの様子。「今回のメダル獲得で、ますますやる気が出てきそうです」と言う。

 勧めた小林さんは(左写真)「こんなに長く続くとは思っていなかった。一人一人個性があり、差がすごくありますが、諦めずに取り組むことで自信にもつながっています。わくわく教室を続けてくれて感謝の気持ちでいっぱいです」と言う。

 太田コーチの夢はスタートしたばかり。先はまだほとんど見えず、未知の航海への旅立ちだが、多くの人の熱き思いを背に受け力強く動き始めた。


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