【特集】北京五輪銀メダリスト、松永共広(ALSOK綜合警備保障)が新天地でレスリング再始動へ【2009年7月21日】

(文・撮影=増渕由気子)



 北京五輪男子フリースタイル55kg級で銀メダルを獲得した松永共広(ALSOK綜合警備保障=右写真)が、新天地でレスリングを再始動しようとしている。

 8月からドイツのチーム対抗リーグ戦「ブンデスリーガ」(※下記参照)への参戦が決定し、異国で週1度のペースで試合を行うことになった。ブンデスリーガのシーズンは毎年8月〜翌年2月で、試合形式は10人のチーム対抗戦。松永が出場予定の60kg級は、8・9月がグレコローマンのシーズンのため、松永は10月からのフリースタイルのシーズンに参戦することが濃厚だ。

 単身で海外へ飛び出す準備として、今年4月から3ヶ月間、語学留学も兼ねて渡米し、米国の世界選手権代表チームの合宿にも参加した。6月末に帰国し、現在は本格的な体づくりのために母校の日体大で練習に明け暮れている。

 昨夏は、シルバーメダリストの栄光を勝ち取った後、2ヶ月間ほど燃え尽き症候群になったという松永だが、そこから出た結論は「レスリングをすること」−。松永が再びマットに戻るまでの軌跡をたどる。

++++++++++++++

■燃え尽きた北京オリンピックを振り返る

 多くの人が松永の金メダル獲得を疑わなかった決勝戦だった―。世界チャンピオン経験者を2人も倒して北京五輪の決勝戦に駒を進めた松永の相手は、米国の若手ヘンリー・セジュド。松永は国際大会で何度も金メダルを獲得しており、圧倒的優勢かと思われた。

 しかし惜しくも敗退。銀メダル獲得は「快挙」に変わりないが、松永はこう話す。「表彰台では悔しくて、悔しくて、仕方がなかったです」−(左写真)。カメラマンから“快挙”の笑顔を要求されても、白い歯を見せることはなかった。

 「終わったことはしょうがないし、あらためて思えば、自分の実力からすれば(銀メダルは)上出来だと思います。自分は(世界選手権でメダルがなく)五輪のときだけポッと出てメダルを取った。(銀メダルの結果は)すごく悔しくて、何で勝てなかったんだろうと思ったんですけど、よくやったと思う」と、1年前の激闘を振り返った。

 五輪で燃え尽きたため、五輪後の2ヶ月ほどは「何もする気が起きなかった」という。その後も、五輪の祝勝会のほか、高校やクラブにゲスト指導者として呼ばれるなどして全国各地を巡業。せわしい日々が続き、2008年を終えた。

■2009年、抱いていた海外進出の夢の実現へ―

 燃え尽きたまま新しい年を迎えた松永だが、「2009年から新たに動き出したい、という気持ちがあった」と言う。五輪前からあたためていた海外進出を実現するために行動を始めた。

 松永がブンデスリーガを知ったのは、学生時代に参加したヨーロッパ遠征でクラブチームの対抗戦がある国の存在を知ったことがきっかけ。当時、同期の柳川育廣(2002年全日本学生選手権グレコローマン60kg級王者)から「親父(群馬大・柳川益美部長)が出場したことがあるブンデスリーガに行くかもしれない」という話を聞いて、さらに興味がわいた。

 「いつか自分も行ってみたい」―。その思いを実現するために、今年2月にドイツに渡り、ブンデスリーガのクラブチーム「RWGメンブリス・ケーニヒスホーフェン」と仮契約を結んだ。 

■銀メダリストという知名度で未来の道が拓けた

 全国中学生選手権で史上初の3連覇を達成し、高校では2年連続五冠王者。大学3年生で全日本選手権を制するなど生粋のエリート選手として育った松永は、若いころから海外経験を多く積んでいた。だが、「バンケット(さよならパーティー)などでは、英語ができなかったので、外国選手と接する機会があっても握手して終わりでした」と、国際交流が思うようにできなかったことが悔やまれた。

 それを克服するため、ブンデスリーガと仮契約を交わし本格的に海外進出が決まると、4月からは米国に単身で渡り準備を積んだ。語学には苦労したが、やはり“北京五輪銀メダル”の肩書きは大きかった。「海外でも自分を認めてもらえるようになった」と松永は話す。米国では誰もが松永を歓迎してくれたそうだ。 

 実際に、北京銀の肩書きを生かして全米ナショナルチームの合宿にも参加した。「全米チームと全日本チームでの練習の差はあまりありませんでした。ただし、日本は、少しやらされる感じで、アメリカは自主的。整列もないし、練習終りも自由解散でした」。日本のクラブチームは、スパーリングが多いが、海外のクラブは技術練習に時間を割いている点が大きな違いだったようだ。

■レスリングの楽しさを再発見!「また、やりたくなった」

 カリフォルニアを拠点として、語学学校に通いながら、近隣の高校やクラブチームを回る日々。練習は積極的にできたようで「体つきは北京五輪時とあまり変わっていない」という。米国滞在は3ヶ月と短期だったが、「違った環境でやれたことがよかった。また、ちょっと(本気で)やってみたくなった」と、ブンデスリーガの参戦に腕がなる状況だ。

 さらに、「この1年はいろんなことを試してみたい。原点に戻ってレスリングを楽しみたいです」と話す。北京五輪前は「楽しんでやろうという気持ちはなかったです」と、常に臨戦態勢だったが、今はだいぶリラックスできているようだ。

「最終的には指導者になりたい。自分で限界を決めてしまうとそれで終わってしまうので、(競技を)できるうちはやろうかな」と、当面はマットの上で闘い続ける方針だ(写真左・右上=日体大で練習する松永)

 北京五輪の感動から一年、“MATSUNAGA”は新天地のドイツで再び輝く―。

 ブンデスリーガ ドイツにあるレスリングのクラブチーム対抗戦の総称。サッカー・リーグの名称と思われている面もあるが、サッカー以外にもレスリング、卓球などの種目がある。レスリングは東リーグと西リーグに分かれて、各リーグ10チームずつ所属している。それぞれ8月下旬に開幕する。一次リーグは12月下旬まで。翌年1月からは、各リーグの上位4チームが2次ラウンドに進み、1月の下旬と2月の上旬にリーグ優勝者同士の決勝ラウンドを行う。
 試合形式は、10人の対抗戦で55、60、96、120kg級はシーズンでフリーかグレコローマンが行われ、66〜84kg級は常時両スタイルを行う。日本人では過去に日体大卒の柳川益美・現群馬大監督が1974年に「エファレン」に1シーズン所属し活躍。その後、柳川氏の紹介で2人ほどブンデスリーガに参戦している。

《iモード=前ページへ戻る》
《前ページへ戻る》