【特集】辛かった日々を乗り越えて五輪出場権を獲得…女子72kg級・浜口京子【2008年3月21日】








 スコアは1−0、1−0だった。だが、相手の攻撃を許さない安定した試合運びで負ける要素は感じられなかった。女子72kg級の浜口京子(ジャパンビバレッジ)が歓喜の中でアジア・チャンピオンに輝き、北京五輪への道を切り開いた。

 黄色のパーカーに身を包んだ50人を超える浅草応援団の歓喜が鳴り止まない。いくつものカメラのストロボがまぶしいばかりに光り続け、浜口の姿を追った。浜口はフロアからフェンスを乗り越えて観客席に上がり、母・初枝さんと抱き合った。昨年9月の世界選手権(アゼルバイジャン)で9位に終わり、悔しさと不安で包まれた日に自らの手でピリオドを打った。

 表彰式では応援席にいた父・アニマル浜口さんが声を上げて泣いていた
(右写真=泣きながらまな娘を抱きしめたアニマル浜口さん)。「うれしかったんでしょうね。ずっと心配してくれていたんだと思います」と、そのシーンを振り返った浜口だが、「北京オリンピックで金メダルを取る夢が一歩近づきました。ホッとしました」と話すその目に涙はなかった。理由を問われると、「うれしさを通り越して、涙が出てこないんです」と答えた。

 それは、“あの日”と同じだった。初優勝した1997年の世界選手権(フランス)。「涙って、うれしすぎる時には出ないものなんですね」というコメントとともに、スポーツ新聞がトップページで報じた快挙を成し遂げ、“世界の浜口”がスタートした日だ。

■あわやフォール負けのピンチを乗り越えて自信がついた

 1回戦の許晴(中国)戦で、あわやフォール負けのピンチを迎えた。しかし、ここをしのいでフォール勝ちしたことで、浜口は自信という大きな武器を得た。準決勝の開始直後の圧勝はその自信がファイトに出た結果だろう。決勝の相手が、2004年のアジア選手権以来3戦して3勝のオチルバト・ブルマー(モンゴル)に決まったこともあり、午前の部が終わった時の顔は自信に満ちあふれたものだった。

 その自信は決勝のマットでも表れ、気合十分の浜口はいた。だが、決して力まかせ、気合頼みの攻撃ではなかった。第1ピリオドは左脚へのタックル、第2ピリオドは右脚へのタックルでそれぞれ取ったポイント。1回戦の中国戦でも左右の攻撃を見せており、攻撃の幅は間違いなく広がっている
(左写真=優勝を決め応援席にガッツポーズ)

 この広がりは、北京五輪での最大のライバルとなる2年連続世界チャンピオンのスタンカ・ズラテバ(ブルガリア)への大きな揺さぶりになるだろう。

 かつてアジアの王者に輝き、1992年のバルセロナ五輪に出場したALSOK綜合警備保障の大橋正教監督が言ったことがある。「記者の皆さんは、世界チャンピオンだとか、ヨーロッパ・チャンピオンだとかにこだわりますけど、闘う選手というのは、そうした肩書きにはあまりこだわらないものです。ヨーロッパ・チャンピオンに輝いたとか、どこかの大会で世界チャンピオンを倒したといった情報より、新しい技を身につけたらしいとか、戦術が変わってきたとかの情報の方が嫌なものなんです」。

 ズラテバはこの冬の国際大会に積極的に出場し、ロシア、米国、スウェーデンで優勝を重ねている。そんな“世界最強の女”への力強い宣戦布告−。それが、この日の浜口のファイトと結果だったと言えよう。

■帰国した日から北京五輪へ向けてのスタート

 北京五輪への課題を問われ、「今は(うれしすぎて)何も考えられない。日本へ帰ってから課題を見つけ、それを克服して北京では必ず金メダルを取りたい」と答えた。ここがゴール地点ではないが、辛かった日々から解放されたのだから、それも当然だろう。この夜は気のすむまで喜びに浸ってほしい。

 だが、家族やサポーターとともに喜びに浸るのはこの日だけ。帰国した日から、北京への闘いがスタートする。苦しかった時を乗り越えた浜口は、その情熱をすべて燃やし尽くしても悔いのないオリンピックという舞台で、真っ赤に燃えてくれることだろう。

(文=樋口郁夫、撮影=矢吹建夫)



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