【特集】重圧をはねのけ、2度の初戦敗退の汚名を返上!…男子フリー60kg級・湯元健一 【2008年5月4日】






 攻めてよし、守ってよし――。男子フリースタイルの北京五輪予選最終戦、60kg級の湯元健一(日体大助手)が立つワルシャワのマットが、一瞬、日本レスリングの“聖地”代々木第2体育館に見えた。日本最大の激戦区で大激戦をものにする強い湯元の姿がワルシャワにあった。

 「世界でも(自分の)タックルが通用する、と自信になりました」。昨年12月の天皇杯全日本選手権で2位に終わり、五輪の道が閉ざされる寸前だった湯元の顔にやっと笑みが戻ってきた
(左写真:五輪出場権を獲得し笑顔の湯元)

■寝られなかった大会前。激励メールが救った!

 「国内では最強。でも、世界では勝てない」――。2度出た世界選手権(2005・07年)ではいずれも初戦敗退。一度目は初戦の相手が前年のアテネ五輪王者であり、その大会でも2位に入ったので同情できるが、昨年のアゼルバイジャンの大会ではジュニアから上がってきたばかりのカザフスタン選手に終了間際にガッツレンチを奪われて敗れ、勝負の詰めの甘さを露呈。”世界で勝てない”という汚名をつけられた。

 その一方で、湯元のライバルたちは、次々と海外で成績を残してきた。最大のライバル・高塚紀行(現日大コーチ)は、2006年世界3位、2008年アジア選手権で準優勝。大館信也(自衛隊)は2006年アジア選手権2位。新鋭の小田裕之(国士大)はカナダカップ3位。

 湯元の不安が消える ことはなかった。「(世界選手権で)あんなかっこ悪い終わり方をして…。高塚が世界でいい成績を取っていて…。日本でも海外でも最強って言われたい」。3度目の正直として北京五輪最終予選で再びチャンスをもらった湯元だが、「今まで感じたことのない不安」が襲う。

 「何日も前から寝られなかった」と緊張はピークに達し、精神的にいっぱいいっぱい。それでも、家族や友人たちからの激励メールが湯元の不安をいい集中力に変えた。「攻めたら絶対に取れるって言われ たことで吹っ切れた」。
(右写真=湯元の十八番・高速タックルが国際舞台でさく裂)

 その言葉通り、湯元は失点覚悟で前へ前へ。「1番きつかった」と振り返る初戦のモンゴル戦の第2ピリオド、湯元の攻撃が認められず、相手に流れが行きかけたときも、最後は自らのタックルでテークダウンを奪い、“鬼門”の1回戦を突破した
(左写真:初戦のモンゴル戦、開始早々相手にタックルに入られるが、無失点で切り抜けた)

■グレコローマンの選手相手にガッツレンチの防御を練習

 2回戦、3回戦と得意のタックルの切れが増すにつれ、自然とディフェンスもよくなった。「ディフェンスは意識してなかった。攻めることだけを考えていました」と言うものの、今回の湯元は確実に進化した部分を見せた。それがガッツレンチの防御だ。

 「アゼルバイジャンでの(ガッツレンチの)悪夢がテークダウンを奪われるたびによみがえります。今日もそうでしたよ」。過去の世界選手権はいずれもグラウンドでの失点で敗退。コーチ陣は何度も湯元の体が返るのを目の当たりにしてきた。

 そこで湯元がとった方法は、体のずらし方をグレコローマンの選手を相手に練習したことだ。60s級全日本2位の実績を持つ北岡秀王(クリナップ)、同じく全日本2位で学生王者の松本隆太郎(現ヤクルト群馬)らとの特訓が、テークダウンを奪われてからの追加失点を0に結びついた
(右写真:勝利の鍵となったグラウンドのディフェンス。以前だったらこの体制から失点していた=決勝)

 それどころか、相手のガッツレンチにうまく合わせて乗る(体を預ける)ことにも成功。1回戦のモンゴル戦でもポイントになりかけた。

 鉄壁のディフェンスで勝ち抜いたというより、3ピリオドの終わりまで常に攻めまくって相手に攻撃する時間を与えなかった今大会の湯元。相手に足を取られても、強じんな下半身で粘り無失点に抑える勝負強さも光った。国内で見るいつもの湯元そのものが世界戦でも見られた。

 「殻を破ったと思う」。国内最強の湯元が国際大会でもブレーク。6月の明治乳業杯全日本選抜選手権(北京五輪の国内最終選考会)でも、“いつもの強さ”を見せ付けられるか。

(文・撮影=増渕由気子)

■湯元健一(ゆもと・けんいち)
 フリースタイル60kg級。1984年12月4日、和歌山県生まれ。和歌山・和歌山工高〜日体大卒。2005年に世界選手権に初出場し、同年の全日本選手権で初優勝。昨年も世界選手権に出場。


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