【特集】北京五輪への最後の決戦! 魂の試される時(3)…大沢茂樹(山梨学院大)【2008年6月21日】







 五輪代表を決める大一番として注目を浴びている明治乳業杯全日本選抜選手権のフリースタイル60s級。その舞台にディフェンディングチャンピオンとして臨むのは、五輪出場権を取ってきた湯元健一(日体大助手)でもなければ、全日本チャンピオンの高塚紀行(日大コーチ)でもない。茨城・霞ヶ浦高時代に五冠を制し、1年生で全日本大学王者に輝いている大沢茂樹(山梨学院大=左写真)だ。

 “天才”と言われてきた大沢は、昨年のこの大会で才能をフルに開花させ、初めて全日本レベルの大会での優勝を達成した
(右写真=湯元を破って全日本選抜王者へ)。キッズ時代からエリートで勝ち進んできた大沢にとって、全日本選抜選手権のタイトルは通過点にすぎないかと思われたが、さすがの大沢も「すごくうれしかった」と振り返る。

 「ずっと首を痛めていて、しびれや脱力感などに悩まされていました。選抜で負けたら手術して競技も辞めちゃおうかなと思っていました」。それほどの満身創いの状況でつかんだ栄光。痛みに耐えながら頑張ってきた努力が報われた瞬間だった。

 だが、そのうれしさが落とし穴だった。全日本選手権覇者の湯元とのプレーオフでは、「体力面より、トーナメントを勝ち抜いて気持ちが切れてしまった」こともあってフォール負け。湯元の経験がプレーオフでは一枚上手で、この敗戦により、世界選手権への道を閉ざされた。

■ほとんど閉ざされた五輪。それでも「1パーセントの可能性にかけてみたい」

 そして12月の天皇杯全日本選手権。大沢は第2シードで競技をスタート。決勝戦に進めばナショナルチーム入りが確定するが、3回戦で高塚紀行(当時日大)に足元をすくわれてしまった
(左写真:高塚に敗れた大沢=青)。「終わった…」。北京五輪に出場し、その肩書きを引っさげて華々しく総合格闘技にプロデビューするという大沢の青写真は崩れた。

 夢破れた大沢は、全日本選手権直後に首を手術。手術箇所が首のため、うまく回復するかは分からない。「引退を覚悟しましたよ」。以後3ヶ月間、マットに上がることはなかった。

 全日本選手権覇者の高塚が五輪出場権をかけてアジア選手権(3月18日・韓国)のマットに立っていたころ、大沢は春休みを使って母校・霞ヶ浦高校の臨時コーチとして高校生を指導していた。その大沢に、霞ヶ浦高校の大沢友博監督(注・同姓であるが血縁関係はない)が声をかける。

 「おまえのオリンピック出場は99パーセント無理! でも、残り1パーセントにかけてみる生き方が、オレは好きだ」。この言葉で大沢の意識が変わった。五輪に行ける確率の1パーセントを信じて復帰することを決断。首のリハビリもうまくいき、4月下旬には山梨学院大のチームに合流。5月上旬のリーグ戦では全試合に出場し、7勝1敗で山梨学院大の7年ぶりのリーグ戦制覇に貢献し、完全復活したのだ。「国士舘の小田裕之に負けてますよ(笑)」と謙遜したが、その内容は0−1、0−1で第1ピリオドはクリンチによる失点だ。マットに復帰して1週間で仕上げたことを考えれば上出来と言うべきだろう
(右写真:リーグ戦の決勝で戦う大沢=青)

■ちびっこ時代の楽しさを再発見! 自然体で臨む

 首の手術後、大沢はレスリングの見方が変わったという。「ちびっこ時代に感じていたような、レスリングが楽しくてしょうがない気持ちになります。勝たなくちゃいけないというプレッシャーもないです」。今大会はノーシードなので、完全な自然体で臨めることだろう。

 もともと自由気ままに行動するタイプ。それがレスリングにも表れている。「自分の好きな技を出して勝つのが自分のスタイル。力ではなく技で勝負します」と、省エネで一気にプレーオフまで勝ち上がる予定だ。アドバンテージがない大沢が五輪に出場するには、優勝することが最低条件で、その後、高塚に勝ち、さらに湯元とのプレーオフに勝つケースだけ。多くて6試合を勝ち抜くことが必要だ。「去年優勝しているので、今回は優勝に満足することはないです。プレーオフまで集中力を持続させられますよ」と精神的にも準備は整っている。

 真っ白な気持ちで出直しを計るディフェンディング王者・大沢がビッグタイトルの連覇、そして北京五輪出場権の“横取り”に挑む。

(文=増渕由気子、撮影=矢吹建夫、増渕由気子)



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