【追悼】吹田市民教室・押立吉男代表を悼む【2008年11月5日】



 日本最大のキッズクラブである吹田市民教室の押立吉男代表が亡くなられた(右写真=11月3日の通夜)。本ホームページの前身とも言える「月刊レスリング」時代から、広報に多大な尽力をされた方だった。この場を借りて思い出をつづらせていただきたい。《ホームページ編集長・樋口郁夫》


 今春に何度目かの入院をされ、6月に水戸市で行われた全国中学生選手権に来ることができなかった。お見舞いに行きたかったが、ご家族から「遠慮してほしい」との返事。だれしも自分や家族の弱った姿を見られたくはない。会えば気も使うし、エネルギーも使う。それもやむをえないと思い、受け入れた。

 夏をすぎると、かなりよくないとの情報。「もしかしたら、生きている押立さんと最後の対面になるかもしれない」。そう思い、ご家族に何と言われようとも、10月26日の押立杯関西少年少女選手権の際に吹田市民教室の西尾秀明副会長とともにお見舞いを強行した。

 病室での押立さん(私は「押立会長」や「押立先生」と呼んだことがない。いつも「押立さん」だった)は、のどの手術のあとだった。言葉はよく話せなかったが、意識はしっかりあり、「よく来たな」と私の来訪を歓迎してくれた。

■出世を棒に振り、レスリングをこよなく愛した押立さん

 1987年の第1回押立杯で知り合って以来、20年以上、私を見守ってくれた。「レスリングが好きだ」という共通項でつながっていた。押立さんは大阪税関での出世を、「吹田市民教室でレスリングができなくなるから」という理由で断った。私は「レスリングの取材執筆をもっとやりたいから」という理由で、日本最大の通信社を脱サラし、「月刊レスリング」を手掛けた。

 押立さんには言葉にならないほど助けてもらったが、「月刊レスリング」は志半ばにして挫折し、私はいったん雑誌社、そして傘下の新聞社に勤務した(その後、ホームページという形で協会の広報媒体に再度かかわらせてもらった)。しかし2004年4月、2度目の脱サラを決めた。それ以上会社にとどまっていると、レスリング活動ができなくなるからだ。目前に迫ったアテネ五輪にも行けなくなる。

 その決意を告げると、「レスリングのために、超安定企業も、新聞社の出世も捨てる…。ワシと同類だ。いや、ワシ以上だ」とあきれ、うれしそうにいつも以上にビールをついでくれた(左写真=自らの分身、押立杯の最後の出席となった2007年大会)

 飲み始めると、3時間も4時間もレスリングの話が続いた。夫人が「レスリングの話ばかりで、何が楽しいの? よく話が続くわね」と聞いてきたこともあるとか。会計で、「私もいくらかでも出します」と言うと、「おまえから出してもらうほど落ちぶれていないわい」と怒られ続けた。

■数多くの会長、副会長を歴任したが、根本にあったのは強烈な野党精神

 日本協会の副会長のほか、傘下連盟の会長や副会長を多く歴任してきた。権力志向のかたまりと思う人もいるかもしれないが、むしろ野党精神が旺盛な人だったと思う。おかしなことは、だれが相手でも闘った人だった。

 1994年3月のこと。「月刊レスリング」の協会への移行をめぐり、私は時の執行部からあまりにも理不尽な要求を突きつけられた。まだ若く、今の何倍も血気盛んな時である。「弁護士をたてて徹底的にやってやりますよ」。いきり立つ私を、押立さんは「やけを起こすな!」と押さえてくれた。次の協会理事会では、「そんなバカな話はない」と、たった一人で闘ってくれ、理不尽要求を引き下げさせた。

 協会内での出世を考えている人なら、私ごときのために体制と闘うことなどしなかっただろう。男気のかたまりだった。その時のことを思い出す度に目頭が熱くなる。いろんな連盟の会長や副会長にまつり上げられたのは、吹田市民教室を引っ張る強烈なリーダーシップのほか、物ごとをはっきりと言い、押しが強くて馴れ合いができず、反体制派に回したらこんなに嫌な相手もいないからだったと思う(右写真=最後の全国大会になった2007年大会)

 物ごとをはっきり言う人だからこそ、私も本音を話すことができた。2000年ごろだったと思うが、「押立さん、次の(協会の)役員改選では同世代の人を引き連れて退いてください。押立さん達の世代がいつまでもいると、若手役員が育ちません。若返らなかったら、レスリング界に発展はありません」と言ったことがある。こんな言葉を押立さんに面と向かって言ったのは、私の他はそう多くいないと思う。30歳以上も年下なのに。

 だが、押立さんは怒るどころか、「分かった。その通りだ。ワシだけが退いても意味がない。みんな引き連れて退くよ」と返してくれた。言いたいことをオブラートに包んで言い合う会話はなかった。私がそんな人間だったら、会う度に泥酔するまでビールを酌み交わす関係にはならなかったと思う。

■吹田市民教室の子供達を自分の子供のように愛した

 結果として、協会副会長は盟友でもある笹原正三会長と歩調を合わせ、2002年度末まで務めた。この時に導入された「理事の70歳定年制」に反対された理事も多かったが、押立さんは「これでやっと退くことができる。やっと『吹田の押立』に戻れる」と喜んでいた。

 協会や傘下連盟の重責にいながら、日本代表チームの海外遠征の役員になったことがない人だった。要請はあってもすべて断っていた。「飛行機が嫌いなんですか?」と聞くと、「吹田の子供たちを1週間以上もほったらかしにしたくないんだ」が、その理由だった。吹田市民教室に通う子供たちを自分の子供のように愛していた。協会や傘下連盟の役職を降りたあとの日々は、本当に幸せな時だったと思う(左写真=吹田市民教室の選手の頑張りを喜ぶ押立代表)

 最後の病室で伝えたいことがあった。でも、言えなかった。いくら失礼と思われることを言い合える間柄であっても…。その言葉を、ここで書かせてもらいたい。「押立さんがいなくなっても、押立杯は毎年必ず来ますね」−。


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