【特集】世界選手権へかける(17)…男子フリースタイル74kg級・萱森浩輝(新潟・新潟県央工高教)【2007年9月11日】








 ことしの男子の世界選手権代表チームは、勤務先がスポンサーとなって大学を拠点として練習している選手が5人、自衛隊体育学校所属の選手が5人、警視庁が3人。いずれもレスリングが“仕事”の選手ばかり。その中で唯一、“プロ選手”ではないのがフリースタイル74kg級の萱森浩輝(かやもりひろき、新潟県央高校教=
左写真)だ。日体大卒業後、2009年新潟国体の強化要員として地元に帰り、高校教師をしながらレスリングを続けている。本職はあくまで“教師”。レスリングにあてられる時間はプロ選手に比べると半分以下だ。

 大学時代に獲ったタイトルは2002年のJOC杯ジュニア選手権の一冠のみ。社会人になって力を付けてきたとはいえ、当初の今夏の目標は7月下旬の全日本ビーチ選手権で優勝することだった。それが1月の天皇杯全日本選手権で、8連覇を目指していた小幡邦彦(ALSOK綜合警備保障)を倒し、6月の明治乳業杯全日本選抜選手権では天皇杯覇者の長島和幸(クリナップ)に本戦、プレーオフと勝利して世界選手権の切符を手にした。

■ナショナルチーム唯一の二束のわらじを履く選手

 新潟県の高校教師が世界選手権に出場する―。これには前例がある。関川博紀(日体大卒)がそうだった。萱森が三条工高(現新潟県央工高)3年生の2001年、教員をしていた関川がフリースタイル58kg級で世界選手権に出場している。しかし、「関川先輩は何度も全国を制してから世界に出たので」と、自分と関川の状況がまったく違うことを強調。「想像もつかない夏になりました」と日本代表になったことに今だに驚きを隠せない様子だ。

 ナショナルチームは6月18日から3年ぶりに100日合宿を慣行し、国立スポーツ科学センター(JISS)に泊り込みで強化をはかったが、萱森はこの合宿には参加せず、強化合宿のみ参加。東京と新潟を往復し、本業の教師の仕事もまっとうした。“世界代表”の権利を使って学校を長期的に休む手段も取れた。しかし萱森は「私は新潟で強くなったので」と、代表になって天狗になることなく、今までどおり自分のペースで調整を進めた。

 世界での経験豊富な小幡や長島を破って獲得した世界選手権へのキップ。7月末からの欧州遠征前、萱森は「海外である程度通用するだろう」という考えを持っていた。しかし、それは甘かった。2試合に出て2試合とも初戦敗退。世界の壁は思ったより高かった。五輪内定基準のメダル、五輪枠確保のベスト8…。萱森は「すべてがうまくいかないと難しい状況」と厳しく自己分析をする
(右写真=ロシア遠征の全日本チーム。後列左から2人目が萱森)

 しかし収穫はあった。2002年のアジア・ジュニア選手権以来の海外遠征で、減量も難なくクリア。海外での食事も問題なかった。また、日本と海外のジャッジの違いなどを体感できた。「先制して残りの時間、守りに入ったらラスト5秒でコーション(警告=1失点)をもらって、ラストポイントによってそのピリオドを失いました」。日本ではなかなか取られないコーションだが、世界では少しでも消極的な行為をとると反則とみなされてしまうのだ。

■自分の踏ん張りで震災と闘う新潟県民に勇気を

 6月に世界代表になってわずか3カ月で“世界対策”をせざるを得なかった萱森は、「基本的な技の部分は変えられない」と、今ある力で全力で戦うことが作戦。普段、萱森を指導する1988年ソウル・92年バルセロナ五輪代表の原喜彦氏(新潟県央工高教)も、「あいつの世界への挑戦は始まったばかりだから、技術より人間力で勝負してきて欲しいね」と語っている


 代表の実感がないという萱森だが、先日、所属する高校が全校生徒600人を集めて壮行会を開いてくれた。「いよいよだ」と気合が入ってきたという。新潟といえば、7月16日に地震の被害にあった。その苦難を乗り越えて被災者たちは立ち上がろうとしている。幸い地震の被害はなかったという萱森だが、同じ県民として心が痛む。

 「自分が世界で活躍して新潟県民に勇気を与えたい」。萱森が一週間後、アゼルバイジャンの中心で“新潟県愛”を叫ぶ!

(文=増渕由気子)



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