【特集】世界選手権へかける(18)…男子フリースタイル120kg級・田中章仁(FEG)【2007年9月12日】







 男子フリースタイル120kg級で北京五輪の出場資格獲得を目指すのは、馳浩・専大監督が「重量級で50年に1人の逸材」と絶賛する田中章仁(FEG=
左写真)。2001年の天皇杯全日本選手権で、その年の世界選手権代表の藤田尚志(山梨学院大)にフォール勝ちし、大学1年で全日本を制した。大学4年間、専門のフリーではほぼ負けなし。重量級ながら、得意技が飛行機投げと器用であることから日本の重量級の歴史を変える選手として大注目を浴びた。

 アテネ五輪出場は予選で敗退して出場を逃したが、日本の重量級のホープとして、2005年の初頭には期待通りの活躍。「デーブ・シュルツ国際大会」(米国)で2位、「ヤシャ・ドク国際大会」(トルコ)で3位など世界の舞台でも結果を残している。

■残り数秒で逃げてしまったアテネ五輪の出場権

 しかし、右ひざは悲鳴を上げていた。じん帯損傷のために手術を慣行。2006年は約1シーズン、前進のために治療とリハビリに時間をあてた。120kg級ながら100kgそこそこの体重で世界を相手にする姿勢に“階級不相応”というバッシングも一部からはあったが、「120kg級が自分の階級」とガンとして階級変更をせず、けがのリハビリと平行して課題の肉体改造に成功。約1年間のブランクにもかかわらず、今年6月の明治乳業杯全日本選抜選手権では大学の後輩となる荒木田進謙(専大)をフォールで一蹴し、2年ぶり3度目の世界代表の座を手に入れた。

 しかし、国内で勝っても五輪の道が遠いのが重量級の現状だ。「本当に厳しい状況です」と、田中の口からは簡単に「メダル」「五輪出場枠獲得」という言葉は出てこない。それは、4年前に五輪挑戦をはね返されている苦い過去があるからでもあろう。

 2004年2月に行われたアテネ五輪の最終予選。あと1勝で出場資格獲得という試合で、残り数秒まで勝っていたが、地元びいきの判定としか思えない内容で逆転負けした。「ブルガリアで開催された大会で、最後の試合はブルガリアの選手とでした」と完全アウエーの状況だった。もっとも、最後は不可解な判定ではあったが、「当時は大学生でしたし、実力不足で甘かったです」と自分の力負けを認めた。

 アテネ五輪が開催された2004年の年末、田中はあることでマスコミの注目を集めた。格闘技イベントK−1を運営するFEGと契約を結んだのだ。ちょうど山本“KID”徳郁がレスリング出身のプロ格闘家として人気急上昇中だったのも手伝って、格闘技界は“大物ルーキー”田中に大注目した
(右写真=K-1の谷川プロデューサー、専大・馳監督とともに行われたFEG入り会見)

 しかし、「北京五輪を目指します」とプロ活動は封印した。北京五輪に照準を合わすべく、課題だった体重増量、パワー強化、そして思い切って右ひざにメスも入れた。

■いよいよプロ転向 その前にけじめの五輪出場だ!

 現在24歳と、まだ若手の部類だ。それでも、25歳で迎える北京五輪が最後の五輪挑戦と心に決めている。いままでマスコミにはアマレス一本の姿勢を貫いてきたが、北京五輪を区切りに、いよいよプロ転向を視野に入れている。「総合の方でやっていきたい」と決意を固める田中。両立して2012年ロンドン五輪も目指すという手段もあるが、アマレスに全力投球するのは、今回が最後。自動的に世界選手権も最後の挑戦となるかもしれない。

 「気持ち的には一番充実しています」とけがなどに悩まされながら、過去最高の状態であることを報告。ここ数年は重量級の国際大会派遣カットなどにより海外経験も減ってしまった。そのため田中は五輪出場権獲得へ長期戦をにらんでいる。「今回は正直厳しいと思っています。最終選考まで食いついていきます」。

 また、出場権獲得へ向けて、一番現実味のある言葉を吐いた。「韓国など実力が近い国に勝っていけば、チャンスはあると思います」。ロシアなど実力が離れすぎているところからのアップセットを狙わずに一戦一戦をこぼさず戦う―。これが田中の信念だ。

 今年5月のアジア選手権(キルギスタン)で国際舞台に復活した田中。今回の世界選手権も五輪への序章にすぎない。一歩一歩五輪のために進んでいく。

(文=増渕由気子)



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