プロ選手の参加(2)

宮田和幸(フリー=日大OB)


 日本の五輪代表選手初の本格的なプロ総合格闘家、宮田和幸(フリー)が、再度の五輪出場へ挑むため、レスリングのマットに戻ってくる。

 アテネ五輪の時は、自分の階級での五輪出場の道が早々と閉ざされ、グレコローマンに転向。最後は1階級上に出場してまで五輪の夢を追い求めた。その執念が、今度は開花するか。

※宮田和幸のレスリング時代の成績 ⇒ クリック

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中学生時代 高校時代 大学時代1 大学時代2 シドニー五輪へ アテネ五輪へ

◎中学生時代

 1990年の全国中学生選手権60kg級で優勝。世界カデット選手権へ出場した(3回戦敗退)

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◎高校時代(茨城・土浦日大高)

 当時の茨城県は霞ヶ浦高が圧倒的に強く、県内でも全国レベルの厳しさがあった。宮田は、その中でも63kg級、あるいは68kg級で全国大会出場を勝ち取った。

 3年生(94年)のインターハイでは68kg級に出場し、順当に決勝進出。優勝を九分九厘手中に収めながら、1年生の大橋理秀(大阪・吹田)に不覚を喫し、史上初の1年生王者を許してしまった。

 しかし、約2ヶ月後の国体で大橋に見事に雪辱して優勝。高校生活の有終の美を飾った。
1993年国体で大橋理秀に雪辱して国体王者へ。

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 ◎大学時代(日大)−1

 茨城県でライバルだった霞ヶ浦高の伊東克佳ともに日大へ進学。1年生の時から団体戦でレギュラーをとり、東日本学生リーグ戦では、日体大や国士大などの強豪チームの上級生相手からも白星をマークし、4戦全勝。

 1年秋の全日本大学選手権では2位に入賞し、ルーキーイヤーから将来性を感じさせる活躍を見せた。
 
1994年5月、1年生で団体戦62kg級のレギュラーへ。当時、圧倒的な強さを誇った日体大の選手も破り、大器の片りんを見せた。

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 ◎大学時代(日大)−2

 学生レスリング界最大のイベントである東日本学生リーグ戦は、1979年から日体大が勝ち続け、1996年で18連覇を達成。どこかが日体大を王座から引きずり落とさねばならなかった。

 それを実現したのが、宮田主将率いる日大だった。1997年大会の5回戦で日体大を5−3で撃破。全勝対決となった7回戦の国士大にも勝ち、19年ぶりに日体大以外の大学が勝利の美酒に酔った。

 勢いに乗って秋の全日本学生王座決定戦でもチームを優勝に導き、全日本大学選手権では個人優勝を飾るとともに、大学別対抗得点でも優勝。団体戦3大タイトル制覇という快挙を達成し、主将の重責を完全に果たした。
1997年5月の東日本学生リーグ戦で、日体大選手を破った宮田(左写真)。優勝決定後は、その体が宙に浮き(写真中)、19年ぶりに日体大以外のチームが栄冠を手にした(右写真)。

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 ◎シドニー五輪出場へ

 大学王者になり、クリナップへ進んでレスリング活動を続けた宮田は、社会人選手の壁がある一方、98年全日本選手権決勝では学生選手に不覚を喫するなど、まだ不安定な一面があった。しかし1999年12月、シドニー五輪予選を兼ねた全日本選手権で、前年に不覚を喫した学生選手や、6年越しのライバルの佐藤将章、そして日大Vのチームメートだった伊東克佳を撃破して優勝。世界予選への出場資格を獲得した。

 00年1〜3月に行われた予選第2ステージは5大会の総合得点で争われるシステム。最後は9位に終わり、7位以内に与えられる出場資格を取ることができなかった。しかし00年4月に行われた最終ステージ(五輪予選アジア・トーナメント)は、強豪のカザフスタン選手を破るなどして優勝。最後でシドニーへのキップを手にする勝負強さを見せた。

 シドニーでは予選3回戦でキューバ選手に1−4で敗れ、決勝トーナメント進出はならなかった。
昔の友は今日の敵−。力を合わせて日大優勝を勝ち取った伊東克佳と五輪キップをかけて対決。 予選第2ステージで闘う宮田。同ステージの総得点は41点で、7位に6点足りなかった。 シドニーへの最後の挑戦は中国・桂林で行われた。トーナメントの一発勝負。宮田は見事に3試合を勝ち抜き、シドニー五輪出場を決めた。

シドニーで闘う宮田。これまで世界選手権には出場したことがなく、これが最初のメジャー・イベント出場。ものおじせずに闘ったが、キューバ選手に1−4で敗れた。

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 ◎アテネ五輪を目指す

 シドニー五輪での上位入賞はならなかったものの、24歳の宮田にはアテネ五輪へ向けてのエースとしての活躍が期待されていた。69kg級で2001年世界選手権に出場するなど経験を積んだが(その後、階級区分変更で66kg級へ)、そこに立ちはだかったのが学生王者だった池松和彦。2003年の世界選手権の日本代表を譲ってしまったことで、アテネ五輪への道が険しくなった。

 最後はグレコローマン74kg級で出場の望みをかけたが実らず、五輪連続出場の夢が消えた。
 2001年世界選手権69kg級で闘う宮田。「たら、れば」になるが、階級区分の変更がなければ、池松和彦と重なることもなく、アテネ五輪は出場できた?

2003年全日本選抜選手権で池松和彦に敗れ、同年の世界選手権出場を逃す。これが“悲劇”の始まりだった。


なぜ、グレコローマンでアテネ五輪を狙わなければならなかったのか

 大学進学以来、フリースタイル一筋だった宮田が、なぜ最後はグレコローマンでアテネ五輪を狙わなければならなかったのか。それは、五輪代表決定方法と密接に関係してくる。

 アテネ五輪の出場資格は、まず2003年の世界選手権で10位以内の選手に与えられる(選手の交代はその国の判断で可)。日本協会は、「3位以内に入った選手は五輪代表内定」という内規をつくり、好成績を残した選手へのご褒美とした。これにフリースタイル66kg級日本代表の池松和彦がこたえ、銅メダルを獲得して同66kg級の五輪代表を決めてしまった。

 その階級でのアテネ五輪への道が閉ざされてしまった宮田は、グレコローマン66kg級で出場の道を模索した。同年の全日本王者となれば、00年2〜3月の2度の最終予選へ出場できる。勝ち抜けば五輪出場の道がつながる。しかし2004年全日本選手権の予選会を勝ち抜くことはできなかった。

 同級は結局、最終予選で出場資格を取ることができなかった。宮田に残された最後の選択は、出場資格を獲得していながら、日本代表が決まっていないグレコローマン74kg級だった。この階級でアテネ五輪に出るには、04年4月の明治乳業杯全日本選抜選手権で勝ち、五輪出場資格を取ってきた永田克彦と、永田を破って全日本王者になった菅太一を連破することだ。

 違うスタイルの、しかも1階級上−。普通に考えれば勝ち抜くことは不可能な挑戦だ。しかし、その夢にかけた。それほどまでに五輪出場の気持ちを強く持っていた。

 結局、全日本選抜選手権の予選で、66kg級全日本王者でやはり74kg級に挑んできた飯室雅規に敗れ、本戦に出ることもなく、かすかな望みが消えた。わずかな可能性を求め、最後まで闘志を燃やしながらも、夢がかなわなかった。



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