【特集】6年でインターハイ王者を育成! 鹿島実高・小柴健二監督【2006年8月6日】






 1990年代の男子フリースタイルの全日本チームを支えた佐賀・鹿島実高の小柴健二監督(34)が、就任6年目にしてインターハイ王者を育てた(右写真)。55kg級の内村勇太選手で、昨年8月の全国高校生グレコローマン選手権で優勝し、ことし3月の全国高校選抜大会でも優勝。ついに高校の総決算ともいえるインターハイでの優勝にこぎつけた。いずれも同県からは初の全国王者だ。

 内村選手は小学生時代からレスリングをやっていた選手だが、決して目立つ存在ではなく、03年の全国中学生選手権は2試合とも1分以内のフォール負けで予選落ちした選手(その時の優勝選手は、今回50kg級で3位の水越智也=霞ヶ浦)。それだけに、小柴監督の指導手腕が賞賛される。

 小柴監督は群馬・関東学園高時代にインターハイ2位の実績を持ち、日体大時代の92・93年に連続で学生二冠王へ。93年には全日本王者へ輝いた。その後、新日本プロレス職員などを経て自衛隊へ。95年ワールドカップ2位、98年アジア大会銀メダルなどを獲得し、2度の五輪出場のチャンスこそ目前で逃したものの、和田貴広・現日本協会専任コーチとともに全日本チームを支えた選手だった。

 だからといって、そのまま指導者の手腕とはならないのが勝負の世界。「名選手、必ずしも名監督ならず」という使い古された言葉があるように、その2つはイコールではない。小柴監督の場合、01年4月に鹿島実高に赴任し、レスリング部を見て、自分が育った環境との違いにギャップを感じたという。
(下写真=現役時代の小柴監督)

 関東学園高も、日体大も、そして自衛隊も、道場は選手であふれており、知らず知らずのうちに競争が行われていた。新天地はそうではいかなかった。「何から教えていいのか分からなかった」。夏のインターハイが終わってやっと高校生の指導の端緒が分かり始めると、部員は2人しかいなかった。部員を集めることにも神経を使わねばならない日。「団体戦で控えもいれてフルエントリーできたのは、今年が初めてなんですよ」と言う。

 ただ、クラブそのものは1974年に創部され、27年の歴史があった。団体戦のインターハイ出場23回は上から数えた方が早い回数。「全国的に強いわけではなかったけれど、先輩たちの築いてきてくれた基盤があって助かった。6年という短い期間でインターハイ王者を育てられたのは、先輩方のおかげです」と感謝している。

 指導の基本理念としてあるのが、選手時代に教えを受けた元全日本コーチ、セルゲイ・ベログラゾフ氏(ロシア)の指導だ。同氏はその時点で30代後半。腰はボロボロだった。しかし「ボク達の間に入り、一緒に汗を流してやってくれました。その姿には胸を打たれるものがありました」と言う。

 「言うだけじゃダメなんです。行動で示さなければ」。赴任後も全日本選手権に出場したのは、「アテネ五輪を目指す気持ちもありましたけど…」という思いの他に、必死に闘う姿を教え子に見せたかったらからだ。全日本レベルの大会は03年の全日本選抜選手権まで、国体は04年まで出場し、自らも闘いを実践してきた。

 五輪出場の夢は、けがをするようになり、「体をこわしたら生徒に迷惑をかける」として消えてしまったが、「勝てなくなったから辞める、ではなく、勝てなくなってもやったことが、いま役に立っています」ときっぱり。「一生懸命にやっても勝てない選手もいる。そんな選手の気持ち、分かるようになりましたから」。決して無駄ではなかった教員としての現役活動。五輪出場の夢は実現しなかったものの、多くの経験が指導者としての肥やしになった。

 「内村が入学した時は、3位に入れればいいなあ、くらいの気持ちだったんですよ」。去年あたりから急激に力をつけ、「もしかしたら」という気持ちが芽生えた。その思いを後押ししてくれたのは、人のつながりだった。大学の先輩でもある拓大・西口茂樹コーチがインターハイ前に拓大4年生の湯元進一選手(昨年の全日本学生選手権フリー55kg級3位)を佐賀まで派遣してくれ、指導に当たらせてくれたという。「湯元君が教えてくれた技、勝負どころで決めてくれました」と言う。こうした財産も“指導者・小柴”を支えた。
(右写真=優勝した内村選手と喜ぶ小柴監督)

 来年は地元佐賀でのインターハイが予定されている。「団体では最低でも3位、できれば決勝進出を目指したい」と目標を話す小柴監督は、さらに先の目標として「自分の行けなかったオリンピックへ出場できる選手(の土台)をつくりたい」を挙げた。

一流だった選手の名監督への挑戦は、始まったばかりだ。

(取材・文=樋口郁夫)



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