【特集】世界選手権へかける(4)…女子55kg級・吉田沙保里【2006年8月11日】





 一瞬の出来事で勝負が決まるレスリングでは、多少の実力差があっても、万全を期してマットに上がらなければならない。国際大会96連勝、国内外92連勝を継続中の女子55kg級、吉田沙保里(ALSOK綜合警備保障)といえども例外ではない。「年ごとに研究され、やりづらくなっていることを感じます」。周囲は“絶対”と思っても、闘う選手にとっては、1戦1戦が気の抜けない真剣勝負だ。

 富山英明強化委員長が世界選手権に初出場した時(1978年)、1階級下には前年までモントリオール五輪を含めて世界4連覇していた高田裕司・現日本協会専務理事がいた。「鼻歌まじりに世界チャンピオンになるんだろ」くらいに思っていた富山強化委員長は、高田専務理事が試合前に他の誰からも見たことがないほど熱心にウォーミングアップする姿が不思議でならなかったという。

 「ガキ相手に試合するのに、何でそんなにまでアップするんですか?」と恐る恐る声をかけたところ、「おまえな、世界チャンピオンであっても、1秒でも(肩がマットにつけば)フォール負けだよ。そうなったら、終わりなんだよ!」と厳しく言われたという。その十数分後、高田専務理事はアナトリー・ベログラゾフ(ソ連)にフォール負けし、世界V5が消えた。一瞬で勝負が決まるレスリングの恐ろしさを表すエピソードだ。

 連勝街道をひた走る吉田も「危機感は常に感じています。外国選手が絶好調できたら、そう簡単に勝つことはできません」と言う。得意のタックルだけでは勝ち続けられなくなったのが現実。研究されたら、研究し返さなければならない。今は、タックル返しを仕掛けられた時の対処法や、ワン・ツー攻撃(タックルで1点を取り、間髪いれずにグラウンド攻撃で2点を加える)でリードを確実にするパターンの確立など、実力のさらなる養成に余念がない。

 「体重が増えないのが気になるんですよ」という不安もある。太らない体質なのか、筋力の増加は感じても体重が増えず、練習の後には55kgを切ってしまう場合もある。「外国選手は5、6kg落とす選手がいますから」。そんな選手には減量疲れというハンディがある一方、これだけの体重差は、やはり不利な状況と言えるだろう。周囲が思うほど、楽な気持ちで世界選手権へ臨むわけではない。

 一方で、「自分の実力がずば抜けているのかな?」と思える出来事にも遭遇した。6月下旬にアゼルバイジャンで行われたゴールデンGP決勝大会で、国内のナンバー2である松川知華子(日大)が、アテネ五輪2位のトンヤ・バービック(カナダ)、同3位のアンナ・ゴミス(フランス)に勝って優勝したことだ。

 バービックは昨年も世界3位に入賞し、今年も2月のキエフ国際大会で欧州チャンピオンのナタリア・ゴルツ(ロシア)を破って優勝。ほかに2月のショーブ国際大会(フランス)、7月のカナダカップと優勝を重ねている強豪。ゴミスは吉田がアテネ五輪準決勝で冷や汗もの試合を余儀なくされた相手であり、今年は欧州3位。6月のオーストリア・オープンで優勝するなど、まだ世界のトップ選手だ。

 それでありながら、この結果。吉田は「まっちゃん(松川)が強くなったんでしょうね」と、国内のライバルの成長を認めたあと、その松川と差をつけている自分の実力が世界の中で飛び抜けているという三段論法を否定しなかった。5月のワールドカップでも、バービックには2−0(3-0,TF6-0=1:59)で勝っており
(下写真)、「日本選手相手にはビビッてしまい、自信をなくしているのかもしれませんね」と見ている。油断は禁物だが、自信を持って世界選手権へ臨める材料ができたことは間違いない。

 それでも、1秒でも肩がマットにつけば負けるレスリング。まして2分間勝負となり、コイントスに起因して負けになることもある新ルールだ。吉田は「ゴルツ(ナタリア=ロシア、03・05・06年欧州チャンピオン)もいるし、ティナ(・ジョージ=米国、02・03年の決勝の相手)も復活してくる。中国はどんな強い相手が出てくるか分からない」と気を引き締めることを忘れない。

 世界選手権で4勝をマークすれば、国際大会100連勝という区切りの記録になる。また、女子ではまだ誰も達成したことのない5年連続世界一(五輪を含む)という新たな記録樹立も目前。しかし、「まず勝つことに全力を尽くしたい。記録を意識するのは、優勝してから」と、1戦1戦に全力投球の構えだ。

 自信を持つ一方で気を引き締めて臨む世界選手権。前人未到の大記録への挑戦は、あと1か月半で幕を開ける。


 ◎吉田沙保里の最近の国際大会

 
【2005年10月:世界選手権(ハンガリー)】

1回戦  ○[フォール2P0:22(TF6-0=0:53,F0:22=4-0)] Neha Rathi Sh. J. Singh(インド)
2回戦  ○[フォール1P0:32(F0:32=3-0)] Ana Maria Paval(ルーマニア)
3回戦  ○[2−0(4-0,2-0)] Ludmila Cristea(モルドバ)
準決勝 ○[2−0(3-0,1-0)] Tonya Verbeek(カナダ)
決  勝 ○[2−0(3-0,3-0)] Su Lihui(中国)

 
【2006年5月:ワールドカップ(名古屋)】

予選1回戦 ○[フォール1P1:25(F6-0)] Sharon Jacobson(米国)
予選2回戦  BYE
予選3回戦 ○[2−0(TF8-1=1:26,TF6-0=1:16)] Nataliya Synyshyn(ウクライナ)
決    勝 ○[2−0(3-0,TF6-0=1:59)] Tonya Verbeek(カナダ)



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