【特集】貧者の一灯が「成人式」…押立杯関西少年少女選手権【2006年11月2日】




1987年 第1回大会の思い出写真

 1987年にスタートした押立杯全国少年少女選手権が成人式、すなわち第20回を迎えた。10月29日に大阪府吹田市の北千里体育館で行われた大会には、東は東京、西は長崎の広範囲から48チーム、史上最多の624選手が参加。1987年の第1回大会の参加が、14クラブ217選手だから、20年で約3倍の大会に成長した。

 第1回大会が行われた1987年は、全国少年連盟(現全国少年少女連盟)が設立されて4年目。この年の全国大会の参加選手数が、前年の「40クラブ470選手」から一気に「53クラブ716選手」へと増えた時であり、いわば少年少女(以下キッズ)レスリング隆盛のスタート期。押立杯は時代の“落とし子”ともいえる大会だった。

 吹田市民教室の押立吉男代表
(右写真)は「初めは貧者の一灯のつもりだった。大阪だけで100人も集まれば十分だと思った」と振り返る。しかし、当時から全国大会で団体優勝を飾っていた吹田市民教室の選手と闘いたいというクラブは多く、意外な数のチームと選手が集まった。

 現在でこそ、全国で多くの大会が実施され、それぞれの主催クラブが運営に工夫を凝らして大会を継続している。当時は大会がそう多くなく、大会運営のノウハウが満足に知られていない時代だった。しかし吹田市民教室は2年前の1985年に第2回全国少年選手権を開催したことで、独自の大会開催へと自信を深め、大阪少年連盟の設立とともに、その記念行事として実施されたがの押立杯だった。

 全面的に協力したのが、隣町の高槻市にある高槻レスリング連盟の寺内正次郎会長
(左写真)。同市に太いパイプを持っており、高槻市体育協会の主管を取り付けてくれた。そのため、市の総合体育館を無料で借りることができた。

 マットの運搬やレフェリー、競技役員は、高槻市連盟や吹田市民教室の選手の父母、そして地元大学のOBなど関係者によるボランティア。当時、個人名のついた唯一の大会だったが、もちろん1人の力でできたのではなく、寺内会長をはじめ、多くの協力者の力の結集の結果。それがゆえに20年も続けることができたことは言うまでもない。

 今年、世界選手権で銅メダルを取った高塚紀行(現日大=吹田市民教室)は幼年の部からこの大会に出場し続けていた。前人未到の高校8冠を制して今年世界選手権に出場した松本真也(現日大=網野教室)もこの大会のマットで闘い、女子では吉田沙保里(現ALSOK綜合警備保障=一志ジュニア)正田絢子(現ジャパンビバレッジ=吹田市民教室)らも優勝に名を連ねている。

 88・89年の第2・3回大会は、西日本学生リーグ戦とのコラボレーション(同時開催)という試みも実施。キッズ選手に大学生のハイレベルの試合を見せ、大学選手にキッズ選手の純真なファイトを見せた。出場選手数が増えるなどしたため、これは2回で終わったが、一貫強化システムの構築にも挑んだ歴史を持つ大会だ。

 今は北千里体育館の4面マットでは足りないほどに選手が集まり、数年前からは、一部のマットをテープで2分割し、幼年、小学1・2年、小学3・4年の一部はそこで実施
(右写真)。計7面マットで運営しなければ進行が追いつかないほどにまで成長した。

 大会運営には、進行を指揮する役員が約20人、審判員が約50人、マット補助員や記録員など吹田市民教室父母
(下写真)と大阪北梅田ロータリークラブによるボランティアスタッフが約80人。予定の午後3時半終了は30分ほどオーバーしたが、これだけの大会運営をトラブルもなくスムーズに行えるのも、20大会を主催してきた強みだろう。

 「これ以上選手が集まると、4面(7面)マットではできなくなる。しかし、参加したい、というチームを断るわけにもいかないし…」と、現在の悩みは初期の頃には考えられなかった悩み。九州からも来るチームがあり、帰りの飛行機や電車の便を考えると、「大会終了は3時半としたい」と言う。

 思い切って1日半にするのも一案だろう。その分経費はかかることになるが、多くのキッズ選手からの目標とされる大会に育った以上、新たな大会運営に迫られていることは間違いない。

 押立吉男会長は、これまでに西日本学連会長、全日本学生連盟会長を務め、日本協会の副会長などの重責をになってきたが、03年3月に日本協会の定年を迎えたのを機に、要職を引退。今はちびっ子達とレスリングをするのが唯一の楽しみという日々を送っている。「30回大会? そんなまで生きているわけないだろ」と笑うが、盟友でもあった故沼尻直・全国中学生連盟会長は、自分がつくり育てた全国中学生大会を「第30回」まで見届けてから逝った。

 10年後の2016年といえば、東京五輪が予定される年(?)でもある。30回大会、そして吹田出身の選手が地元のオリンピックで金メダルに輝く姿を見ることを目標に、この大会をさらに発展させ権威あるものに育ててほしい。

(取材・文=樋口郁夫)


《iモード=前ページへ戻る》

《前ページへ戻る》