【特集】“リストラ危機”を脱して北京五輪へ挑戦!…グレコ74kg級・岩崎裕樹





 “リストラ候補選手”が踏ん張った−。プロ野球やJリーグの話ではなく、レスリング・グレコローマン74kg級で世界選手権代表を勝ち取った岩崎裕樹(銀水荘)のことだ。今回の明治乳業杯全日本選抜選手権で結果を出さなければ、所属する銀水荘から“解雇”とまではいかなくとも、レスリング活動の終えんを言い渡される瀬戸際だったという。

 勝ち抜いて世界への道を切り開いたことにより、北京オリンピックまでレスリングに打ち込んでいいことになりそうだという。世界選手権へは初出場であり、右も左も分からない状態。独特のムードにのまれないとも限らないが、「せっかくのチャンス。生かしたいですね」と張り切っている。

 大学時代までは輝かしい実績を持っていた選手だ。香川・多度津工高時代の1998年に全国高校グレコローマン選手権や国体で勝ち、日体大時代の01年に学生王者へ。翌02年には学生2大タイトルを制した。03年3月の卒業のあと、同年に静岡国体を控える静岡県の加藤昌利・レスリング協会会長の厚意で、同会長の経営する銀水荘に籍を置き、レスリングに打ち込む生活を続けさせてもらった。

 銀水荘勤務といっても、ホテルでの仕事は全くやっていない。日体大の近くに住み、同大学の練習に参加するという“プロ選手”。国体を控える県では決して珍しいことではない。これまでにもいろんな県でこうした“国体プロ選手”がおり、期待にこたえてきた。

 しかし岩崎は、肝心の地元国体は決勝で菅太一(警視庁)に敗れてしまった。その1か月後の全日本予選会では初戦敗退で本戦への出場を逃した。04年4月の明治乳業杯全日本選抜選手権は、永田克彦(新日本プロレ職ス)が取ってきたアテネ五輪の出場権をめぐっての戦いだったが、初戦で年下の鶴巻宰(国士大)に負傷による途中棄権という屈辱。

 さらに同年の国体、全日本選手権ともに菅に敗れた。結局、社会人になってからタイトルを獲得することなく、加藤会長の期待にこたえられないできた。国体終了とともに“優遇”が終わり、ホテルで普通に勤務するようになっために実力を落とした、と思った人もいただろう。「今回ダメならリストラ」という流れは、極めてもっともなことだった。

 しかし瀬戸際で力を発揮した。全日本王者の鶴巻を準決勝とプレーオフ
(写真左)で、「苦手意識があった」という菅を決勝でそれぞれ破っての世界選手権出場キップ獲得。俵返しはそれほど得意ではなく、リフトと言えばもっぱらバック投げだった。俵返しの攻防が導入されたルール改正が直接の勝因ではないと分析するが、それでも「瞬発系で力を発揮する体です。前のルールよりは自分に味方してくれましたね」と振り返る。その分、今後の練習で力を注がなければならないのがスタミナ養成の練習だという。

 鶴巻に勝って世界選手権代表を決めたあと、インタビュースペースで報道陣に囲まれた。それもいい気持ちだったが、「全日本合宿の整列の時、一番前の列に並べるのもいい気持ちですね」と言う。以前は満足に口も聞いてもらえなかった全日本コーチが頻繁に声をかけてくれ、アドバイスしてくれる。日本代表になったことの喜びを十分に感じており、「1位にならないとダメですね」としみじみ話した。

 これまで00年世界ジュニア選手権(2戦2敗)、01年ウズベキスタン国際大会(6位=2勝1敗)、02年世界学生選手権(1勝2敗)と、学生時代に海外遠征の経験はあるが、ここ数年は大会出場のために海を渡ったことがない、幸い、世界選手権前の8月にポーランド遠征(合宿・大会出場)に参加することになり、貴重な実戦の場を得ることができた。「グラウンドを中心に、自分の形をしっかりとつくってきたい」と、社会人になってからの遅れを取り戻すべく気合を入れている。

 国体が終わっても、なおかつレスリングに専念させてもらえるのは、かなり異例のこと。それを、この後も続けさせてもらえるのは、もちろん“世界最高の舞台”オリンピックへの道がつながったからだ。その第一歩となる今年の世界選手権は、“善戦”でいいわけがない。また「初出場だから」という言い訳も聞きたくはない。加藤会長の気持ちに、全身全霊でこたえなければならない。

(取材・文=樋口郁夫)


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