【特集】打倒・吉田沙保里を胸に、“勝負の時”を待つ坂本日登美





 2008年北京五輪のレスリング女子の実施階級が4階級(48、55、63、72kg級)に決まった10月28日、ちょうど1か月前に51kg級で4年ぶりに世界一に返り咲いた坂本日登美(自衛隊)は、その報を故郷・青森で聞いた。その時は「ちょっとショックだった面はありました」と振り返るが、今では「よかった」と思っているという。「55kg級で日本代表権獲得」という大きな目標ができ、日々の練習に打ち込むことができるからだ。

 今年の世界選手権は全試合圧勝だった。しかし優勝した時の喜びは、6月の世界選手権代表決定プレーオフで伊調千春(中京女大)を破った時
(写真右)ほどではなかった。その度合いを数字で表わすなら「半分くらい」とか。この喜びを目標にして、厳しい練習を積み重ねる自信はない。「51kg級では3回も世界チャンピオンになった。もう安全圏に入っているという感じ。この気持ちで北京オリンピックを目指して、気持ちが続くでしょうか…」。

 勝負の世界に生きる人間の性(さが)が、安閑としたぬるま湯に浸かってしまうことを拒否していた。「千春選手に勝ったあの喜びを次に味わえるのは、吉田沙保里選手に勝った時だと思います。挑戦してみたいですね。前に負けていますし
(02年全日本選手権=写真左、下が坂本)」。困難が大きければ大きいほど、それを乗り越えた時の喜びも大きいことを、伊調千春との激闘の中であらためて感じた。あの喜び、あの歓喜、あのやりがい…。それこそがマットに立つ人間の幸せだ。

 アテネ五輪の前は、51kg級が実施されないことで立ち上がれなくなってしまったが、今は、全く同じ試練をしっかりと受け入れることができている。3度も世界一になった “自分の階級”を捨て、1階級アップしなければならない悲壮感は、どこにも感じられない。どん底からはい上がった人間の強さなのだろう。

 ただ、今年の全日本選手権は51kg級での出場だ。「55kg級での闘いは始まっている」という坂本にとって、体を慣らすためにも今回から55kg級で勝負する手もあったはず。だが、きっぱりと言った。「出場する階級を上げることではなく、どの階級ででも通じる技量を身につけることがまず大事だと思います」。

 いま吉田と闘ったら「たぶん負けるでしょう」とも言う。やみくもに挑戦すればいいというものではない。勝つだけの実力がつくまで勝負の時を待ち、それから勝負をかける−。それが坂本の描いている北京五輪へ向けての青写真。負けて、その悔しさをエネルギーにして飛躍へつなげる方法もあるだろう。だが、焦ることはない。豊臣秀吉や徳川家康ら名を上げた戦国武将が、無謀な闘いを挑むことなく、じっくりと“勝負の時”を待ったように、絶対の実力と自信がつくまで勝負を待つ腹積もり。マグマの貯蔵庫は、大きな容積をあけてエネルギーの充填(じゅうてん)を待っている。

 来年は12月にカタールのドーハでアジア大会が予定されており、これは女子4階級のみの実施。早ければここで吉田との55kg級日本代表争いが実現する可能性がある。しかし坂本は「コーチと相談して決めますが」と前置きしたうえで、「出ないかもしれません。目標はオリンピック。アジア大会は正直言って視野に入っていないんです」と正直な気持ちを吐露してくれた。オリンピックへ向ける決意の強さがひしひしと伝わってきた。

 今回の全日本選手権は、伊調千春が階級を下げたこともあり、順調に力を出し切れば優勝は固いところ。それは来年の世界選手権、すなわち世界V4への道につながる。「55kg級で勝負する人間が、51kg級で負けていては話になりませんよね」。全日本選手権のみならず、世界選手権での圧勝優勝も口にし、絶対の自信を見せるが、それはこれからの過酷な勝負へ向けての序章でしかない。

 それであっても、坂本はその試練を受け入れる。選手としての幸せを求めて。世界一になれれば幸せだ、と思うのは間違いだ。たとえ2度、3度と金メダルを取っても、それが本当に幸福だとは言い切れない。米国の心理学者チクセントミハイは「人が真に幸福を感じるのは、逆境に挑むときであり、困難に挑む時だ」と主張している。苦しさなんかではない。最高の幸せに身を投じるのだ。坂本の新たな挑戦が始まる。

(取材・文=樋口郁夫)




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