【特集】どん底から再起し、全日本王者を目指す元高校三冠王者・田岡秀規






 けがとの闘いから復帰して栄光をつかむことは、周囲の人間に大きな感動を与える。今年の世界選手権では、女子51kg級の坂本日登美(自衛隊)と59kg級の正田絢子(ジャパンビバレッジ)が苦難を乗り越えて世界一にカムバックし、見る者の胸を打った。

 21日から始まる天皇杯全日本選手権(東京・代々木第二体育館)、そして北京オリンピックへ向けて、そんな感動のドラマに挑戦するのが男子フリースタイル55kg級に出場する田岡秀規(24=自衛隊、
右写真)。1998年の56kg級高校三冠王者(全国高校選抜大会、インターハイ、国体)だ。

 今年、2つの社会人大会(全日本社会人選手権、全国社会人オープン選手権)に勝ち、米国の強豪がそろうサンキスト国際オープン大会で4試合に勝って優勝。チーム内での練習試合とはいえ、全日本選抜選手権2位の杉谷武志を撃破。絶好調で世界5位の松永共広(ALSOK綜合警備保障)へ挑戦する。「(高校時代)彼は49kg級で、ボクは56kg級。階級の上のチャンピオンの方が有利というところを見せたい」。控えめな表情ながらも、日本のエースにまで成長した同期生へのライバル意識を見せる。

 98年の高校レスリング界といえば、49kg級の松永(静岡・沼津学園高)と76kg級の小幡邦彦(茨城・霞ヶ浦高=現ALSOK綜合警備保障)の2人が、ともに五冠王(前記+JOC杯ジュニア選手権、全国高校グレコローマン選手権)に輝く偉業を達成した年。そのため三冠王・田岡の印象が薄くなってしまったが、田岡は山梨学院大へ進学し1年生で新人戦優勝。この年の同じ階級の学生二冠王だった3年先輩の山本徳郁(現プロ格闘家)と「かなりのところまで闘えた。あと1、2年で倒せるという手ごたえはあった」とか。2年生の時は全日本大学選手権で3位に入るなど資質は十分だった。

 順調に伸びれば、今ごろは松永や小幡とともに全日本チームを支える選手になっていただろう。しかし00年途中からその名はレスリング界の表舞台から消えてしまった。腰を痛め戦列離脱を余儀なくされたからだ。大学最後の年(02年)の夏に2年近くのトンネルを抜けて復帰し、全日本大学選手権で3位へ。自衛隊でレスリングを続ける進路を選んだものの、彼が高校時代に抜群の成績を残した事実は忘れ去られ、日本のトップに戻ってくることを、“期待”ではなく“予想”した人は皆無だったことだろう。


 腰痛は高校三冠王者どん底にたたき落とした。歩くこともままならない痛み。最初は腰の神経に麻酔のような注射する治療を試みたが、効果はなかった。次に試したのが置き鍼(はり)。約150本の細い鍼を腰に入れる方法で、警視庁の花原大介コーチがこの治療で腰痛を克服し、バルセロナ五輪出場を果たしている。しかし回復してくれなかった。

 そんな時、テレビで慶大病院がやっている腰痛治療の手術を知り、わらにもすがる思いで行ってみた。スポーツ選手の場合、ヒザやヒジなど大事な箇所の手術に踏み切るには勇気がいる。体のかなめともなる腰はなおさらだ。しかし「学生時代は棒に振ってもいい。しっかり直して、またマットに上がりたい」という気持ちから決断。これが当たって回復への道を歩むことができた。

 そうまでして田岡をマットに引きつけたのは、「期待してくれる家族の存在」だった。長兄・師範さんは山梨学院大時代の96年にフリー48kg級で全日本学生王者に輝いたが、最軽量級が一気に54kg級へ引き上げられたことで引退。次兄・智和さんは北海道・岩見沢農高時代の94年の全国選抜大会で打倒・霞ヶ浦を果たして優勝したメンバーで、自衛隊へ進んだものの、その後マットを去った。

 「兄の無念を晴らしたいし、両親も期待していました」。レスリング界の誰もが振り向かなくなっても、家族はしっかりと見守ってくれていた。大学の最後の全日本大学選手権で3位になり、普通に考えれば「腰痛を克服してよくやった」だが、その時の気持ちは「優勝を目指していた。3位では…」。生来の負けず嫌いも、レスリングから離れることのできなかった一因か。

 03年4月に自衛隊に進んだものの、1・2年目はまだ腰痛の影響が残り、練習できたりできなかったりで、結果を出すことはできなかった。しかし、今年、やっと“本来の場所”へ戻ってくることができた。「JISS(国立スポーツ科学センター)でリハビリのメニューを組んでもらい、それが腰痛の完全な克服に役に立った」という。

 また、全日本チームがJISSで合宿する時は練習相手として参加することが多く、ここで田南部力(警視庁=アテネ五輪銅メダルへ)や松永らトップ選手と手合わせする機会に恵まれたことも、はかり知れないものがあった。大学時代は、場所が山梨だったこともあり、全日本の練習に参加する機会はなかった。「朱に染まれば紅くなる」と言われるように、全日本選手相手の練習で上を目指す気持ちをつくれたことも大きかっただろう。

 腰の具合が思わしくない時は、コーチに「治療の期間とさせてください」と伝え、“休む勇気”を強く持ったこともよかったと振り返る。「だましだましやっていたら、今の成績はないと思う」。しっかりとした自我を持てたことも復活の大きな力。コーチの言うことを「はい、はい」と聞くだけの選手では、本当の強さは身につかない。

 【サンキスト国際オープン 成績】

 1回戦  ○[2−0(3-0,2-0)] Carlos Restrepo(米国)
 2回戦  ○[2−0(4-0,4-0)] Matt Azevedo(米国)
 準決勝 ○[2−0(2-0,4-0)] Alex Contreras(米国)
 決  勝 ○[2−0(3-0,3-1)] Luke Eustice(米国)

 10月のサンキスト国際オープンでは、米国選手4人を相手に失ったポイントは1点だけというほぼ完全優勝。「これまで国際大会の経験もほとんどなく、とても緊張した大会でした。でも決勝では勇気を出してタックルにいくことができた。あれだけの試合ができたことは、とても自信になりました」。

 全日本選手権は、その自信を胸に臨む大会。松永を「バランスがいいし、タックルを切る力がすごい」と評価しており、一筋縄ではいかない相手であることは十分に承知しているし、ほかにも強豪は多い(右写真=フリー55kg級の強豪たち。左から杉谷、松永、稲葉泰弘、清水聖志人)。「欲を出すといい結果はついてこない気がする。抑えて、気楽に、プレッシャーを感じないように臨みたい。でも、勝ちたい。その気持ちがうまくミックスできれば」と言う。

 自衛隊の宮原厚次監督は、ケガで周囲から「もうダメだ」と言われた井上謙二(フリー60kg級)を五輪で銅メダルを取るまでに生き返らせた。ことしは坂本日登美。10数年も昔のコーチ時代には、ヒザの大手術で再起不能は間違いないと言われた森巧(グレコローマン68kg級)を励まし、どん底からはい上がらせバルセロナ五輪に出場させている。「うちは負傷者再生工場なんです。田岡も絶対にあきらめさせない。今回松永を破ることはできなくても、北京五輪までには…」と再生に意欲を燃やす。

 そんな期待を受ける田岡は、最後に「大学時代は高田先生(裕司監督=現日本協会専務理事)に反発し、勝手なことをしてしまった。勝つことで、お詫びの気持ちを伝えたい」と、ちょっぴり照れながら言った。勝負の時は23日!

(取材・文=樋口郁夫)




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