【特集】花開いた攻撃レスリング、次の目標は北京五輪の金…吉田沙保里

 予選1回戦   BYE
 予選2回戦 ○[Tフォール、3:47=11-0] Su Dong Mei(中国)
 予選3回戦 ○[Tフォール、6:00=10-0] Diletta Giampiccolo(イタリア)
 準 決 勝  ○[7−6] Anna Gomis(フランス)
 決    勝 ○[6−0] Tonya Verbeek(カナダ)

     


 電光掲示板が示す試合タイムが5分30秒をすぎた。スコアは5−0で吉田のリード。観客席では、兄の栄利さんが勝利を確信し、最前列まで乗り出してセコンドの栄和人コーチ(中京女大)に対し、何度も「栄先生!」と力の限り叫んで、日の丸を投げ入れようとしていた。攻撃の手をゆるめない吉田はさらに1点を加えた。その動きを追っていた栄コーチは、栄利さんの声に気がつかない。

 金メダルへのカウントダウンが始まった。「3、2、1、0!」。日本レスリング界が16年間待ち続けたオリンピックの金メダル。応援団の熱狂は最高に高まり、スタンド全体が大きな叫び声をあげたかのように躍動した。

 この歓声にかき消され、兄の声はまったく栄コーチに届かない。業を煮やした栄利さんは、その日の丸を思い切り栄コーチのいる場所へ投げた。兄の思いに気がついた栄コーチ。その日の丸を手にすると、吉田を迎え入れ、吉田が栄コーチを肩車。栄コーチは吉田の肩の上で日の丸を大きく広げ、熱狂する日本応援団へ勝利をアピール。そしてある指示を出すと、マットの上で体操選手と見まがうかのようなきれいなバック宙を披露し、観客の声援にこたえた。

 「勝ったら、肩車とバック宙をやろうと、監督(栄コーチ=中京女大監督)と決めていたことなんです。ここまで育ててくれた感謝の気持ちです」と説明した吉田。マットサイドでは、もう一人、常にあたたかくそして厳しく見守ってくれた日本協会の福田富昭会長が国際レスリング連盟の本部席から駆け寄り、2人を迎え入れて祝福した。

 3選手が決勝へ進み、一番手の伊調千春が敗れてしまった。吉田は大学の後輩の敗戦を目の前にして「自分がかたきを討つんだ。千春の分まで頑張るんだ」と言い聞かせてマットに上がった。午前の部では、エース浜口京子が敗れ、日本チームのムードは一瞬暗くなりかけたそうだ。コーチたちは「ここで負けてどうする。何をしにオリンピックへ来たんだ!」と叱咤(しった)した。吉田も「絶対に自分が勝つんだ。日本へ金メダルを持ち帰るんだ」と決意したという。

 正面タックルは警戒されていることが分かった。ならば昨年ころから使い始めたローシングル(低い片足タックル)だ。この2つを使い分けることで、面白いようにテークダウンが決まった。6点は6度のタックルで重ねたポイント。ラスト30秒で5−0なら、無理に攻撃しないのが普通だ。万が一にもカウンターを受けてフォールされたらおわりだ。

 だが、吉田は晴れの舞台で心地よくタックルを決めることを楽しむかのように、最後まで攻めた。ラスト6秒で6点目。ここまで攻め続けるファイティングスピリット! “オリンピック・チャンピオンの中のチャンピオン”と呼ぶにふさわしい攻撃レスリングだった。

 準決勝では、世界V4のアンナ・ゴミス(フランス)戦では、途中で1−3、3−6とリードを許してしまった。「危なかったですね。落ち着いて焦らずにいくことを考えました」と振り返った。最初の3点はタックルを見事に返されたものだが、次の3点の相手の小手投げは判官びいき(弱い者に味方すること)と思える失点。栄コーチは「危ないところは何もなかった」と胸を張る。リードされては、その直後に追いつくことのできる爆発力。これも、負けないために絶対に必要な能力。今の吉田には、当分勝ち続けるだけの実力が十分に兼ね備わっている。

 五輪をかなり先にした段階でも言っていた「五輪2連覇を目指します」という言葉は、この金メダルのあと「北京五輪でも金メダルを狙います」と変えてはっきりと口にした。「そのためにも、世界選手権でも勝ち続け、国際大会でも無敗を続けたい」と言う。国際大会の連続優勝は「17大会」に伸び、74戦無敗となった。北京五輪までこの記録が伸ばすことは不可能ではない。本当にすばらしい五輪チャンピオンが誕生した。

(取材・文=樋口郁夫)


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