【特集】勝利の全力疾走でエネルギーを燃やし切る…女子72kg級・浜口京子




 浜口京子(ジャパンビバレッジ)は走った。広いマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)に設置されたマットステージの上を、端から端まで。「私流のうれしさの表し方です。決勝戦で自分の手が上がったら、好きなことをしよう、爆発しよう、と思っていました。自分へのご褒美みたいなものです」。

 世界V5への思いが強ければ強いほど、常人の何倍ものエネルギーが必要だった。前日の計量の前、「明日からの試合で爆発させます」と話していた浜口は、その言葉通り、1回戦から力を爆発させ続け、思っていた通りの結果を得た。だが、体に蓄積されたエネルギーはばく大な量で、体の中には燃やし切れなかったエネルギーが残っていた。その思いを、広いMSGでの全力疾走という形で燃やし切ろうとした。

 女子が五輪種目になった状況下での闘いは、決して楽なものではなかった。表彰式では、1996年のアジア選手権(中国)以来の涙がほおを伝わった。初めて世界一になった1997年は、「涙って、うれしすぎる時には出ないものなんですね」と言って、「な」の字すら見せなかった。昨年世界一に復帰した時も、涙はなかった。だが、今回は違った。

 たとえデフェンディング・チャンピオンであっても、たとえ過去4度の優勝を経験していても、試合に臨む選手の気持ちに「絶対」という保障はない。常に「負けるかもしれない」という不安との闘いがつきまとう。

 特に決勝の相手のトッカラ・モンゴメリー(米国)は地元の成長株で、かつて浜口の壁としてそびえ立っていたクリスチン・ノードハーゲン(カナダ)を破ったこともある選手。今年に入って、浜口が昨秋不覚を喫したオヘネワ・アクフォ(カナダ)を2度も破り、今大会の準決勝では昨年2位のワン・シュ(中国)にフォール勝ち。確かに力をつけている。いやがおうでも不安は襲ってくる。

 その気持ちを、和らげてくれたのが、試合前の福田富昭会長の「あと6分間、戦えばいいだけだ。マットの上で死ぬことはないから、死ぬまで攻め続けろ!」という言葉だった。初めて足を踏み入れた時に「広い」と感じたMSGは、エネルギーを出し切る場所にふさわしく、「自分の味方になってくれた」と振り返る。日本選手が4人金メダルを取った追い風。米国選手を応援するサポーターに数では劣っても「パワーでは負けない」と断言できる両親ら日本からの熱烈な応援団。すべてのパワーが結集が、浜口を後押しした。

 歴代6位となる5度目の優勝は、来夏のアテネ五輪での金メダルもぐっと近づけたことになる。もっとも試合直後は、戦いのことは考えたくはなかった。「精いっぱいやってきたので、今は心身ともに疲れています。ちょっと休んで。オリンピックのことも忘れたい」と話し、しばらくは戦いを忘れたい気持ちを表現した。正直な気持ちだろう。報道陣も、その気持ちが十分に分かるからこそ、何となくオリンピックへ向けての質問をしづらくなった。

 しかし、世界一になった人の話を聞くと、試合が終わった翌日、早ければ表彰式の1時間後には、もう次の戦いのことを考えるものだという。今回の男子チームの監督を務めた富山英明強化委員長は、世界一になった直後、「世界中の選手の標的にされる」と思うと身ぶるいがし、翌日からもうトレーニングを開始した。

 この記事がアップされているころには、浜口の気持ちはもうアテネ五輪へ向かって動き出しているものと思われる。それでなければ、世界一を守り続けることはできない。

 世界チャンピオンは、世界中のレスラーの標的にされる反面、相手が恐れてくれるという有利さもある。モンゴメリーがどれだけ強くなっていようとも、カナダや中国がどれだけ成長していようとも、浜口が一番金メダルに近い位置にいる事実に間違いはない。闘いまであと11ヶ月。再びばく大なエネルギーを仕込む日々が始まった。今度、それを爆発させるのは、アテネのマットだ。



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