【特集】「Wrestling is a part of life」




 全国社会人オープン選手権第2日の11月24日、グレコローマン96kg級で優勝したハンド・ボラッシュ(日体大クラブ)はハンガリー人で、6週間前に日本に来たばかりだ。先週入籍したばかりの新婦・石黒雅子さんは日本人で、今は2人で横浜で暮らしている。

 レスリングを始めたのは9歳の時。世界選手権の代表選手や五輪選手を多く輩出しているブタペストのスポーツクラブ「BVSC」でレスリングを続けた。1996年にはジュニアのハンガリー代表に選ばれ、ヨーロッパ選手権と世界選手権に出場し(ともに81kg級)、双方とも4位に入賞。このときの世界ジュニア選手権では、松本慎吾(当時・日体大=現・一宮運輸)に出会う。

 松本も同じ81kg級。ちなみに同大会での松本の成績は9位。ボラッシュと直接対戦しており、レスリングをほとんどしておらず柔道選手の延長だった松本は4分11秒、0−11のテクニカルフォールで敗れている。

 その後、98年もハンガリーでジュニア1位になり、ジュニアの世界選手権とヨーロッパ選手権に再度出場(ともに90kg級)。世界では5位、ヨーロッパでは2位になった。シニアになってからは、99年にハンガリーで3位になっている。

 ハンガリーはグレコローマンのレスリングが盛んな土地で、毎年、「ハンガリー・グランプリ」という賞金付きのハイレベルな国際大会が開催されている。日本からも全日本チームがたびたび出場し、今春は笹本睦(綜合警備保障)が優勝した。選手も目立つ活躍を繰り返し、コンスタントに世界での上位入賞者を輩出している。最近では、アレクサンダー・カレリン(ロシア)のライバルとしてずっと苦杯をなめ続け、01年、02年も世界選手権の決勝で敗れ涙を流したバルドスがよく知られている。

 ボラッシュは99年にシニアのハンガリー代表まであと少しという場所までのぼりながら、見聞を広めるためにハンガリーを出た。2001年にはニュージーランドに滞在し、働きながらレスリングを続け、ニュージーランド選手権にも出場し優勝した。そして、伴侶となる日本人の雅子さんと出会った。

 なぜ、ハンガリーから遠いニュージーランドに行っていたのだろうと不思議だが「いろんなところへ行って、いろんなことを知りたかったから」と答えが返ってきた。ヨーロッパの若者は、家庭を持ち生活の基盤を築く前に、見知らぬ土地へ行き、そこで生活をして見聞を広めるという習慣がある。ゲーテの「ウィルヘルムマイスターの修業時代」にもある昔からあるテーマだ。それでも、十数年前までは、ソ連とアメリカの対立からくる国際情勢の影響で、東欧の若者たちは思うように「修行」できないでいた。

 しかし、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩れた1989年以降、東ドイツ以外の東欧諸国でも民主化の波が広がった。プラハで始まった流血のない民主化は東欧全体に広がり、ビロード革命と呼ばれるようになる。ハンガリーも89年秋に共和制へ移行、民主化された。それ以来、外国へ出るのが難しいかった東欧諸国も、今では気軽に出国できるようになった。日本でも、英語学校の先生に出身国を尋ねると実は東欧出身だということも少なくない。ボラッシュも、そういった「修行」をする若者の一人だったのだ。

 合宿などで肌を合わせたりして気心が知れていた松本は、今春、ハンガリーでの合宿の際、一時帰国していたボラッシュと再会しメールアドレスを交換した。すると、初夏に突然、日本語でメールが舞い込んだ。メールを書いたのは当時婚約者だった雅子さん。もうすぐ日本で暮らすことになるのだが、日本へ行ってもレスリングを続けたいので、練習をさせてほしいとのお願いだった。

 この突然の申し出は、松本にとって願ってもいない依頼だった。日本では誰も松本の技を防御できず、練習相手不足に悩んでいた。1階級上の選手とはいえ、格好の練習相手になる。また、松本以外の他の選手にとっても、日本にはない技術の蓄積の上でトレーニングを積んできたボラッシュとの交流は、得るところが大きい。

 「日本のレスラーはみんなスタンドが巧い。スタミナもあるし粘り強くてすばらしいと思う。でも、グラウンドの技術が足りない。松本選手も、筋力とスタミナが抜きん出ていて、リフトもヨーロッパの選手よりも上手だと思う。だけど、彼もグラウンドが苦手。練習もスタンドばかりやっているし。日本のレスラーはみんなグラウンドが苦手ですね」

 国際大会のたびに感じるヨーロッパの選手たちとの落差を、ズバリと言い当てられた。入籍をすませたばかりなので、日本人の配偶者としてのビザを申請するのもこれから。そののち、日本国籍を取得する申請をするつもりだ。

 国際レスリング連盟のルールによれば、出場国を変更する場合、2年間の国際大会不出場が条件となる。2年の空白を明ければ別の国の代表として認められるのだ。アテネ五輪に日本代表として出場するのにギリギリ間に合うのかと思えば、「日本国籍を取得するには、早くても3年はかかりそう」なのだという。ならば、まだ24歳だし、2008年の北京五輪には日本代表として出られるかもしれませんね、と問いかけると「先のことすぎて、わからないよね」と雅子さんと笑みを交わす。

 これほど面倒なことをくぐっても、まだレスリングを続けるのはなぜなのか? 「人生の一部なのよね」「 a part of life 」。夫婦そろって、答えてくれた。人生のすべてではない。でも、レスリングは、なくてはならない一部なのだ。(取材/文・横森綾)



《前ページへ戻る》