【特集】日本レスリング界支える中島医師


 11月3〜4日に行われた全国社会人オープン選手権・社会人段位別選手権の結果を見て、初日の敢闘賞を受賞した人物の名前に気づいただろうか。普通では考えにくい選手が受賞していた。というのも、フリースタイル初段以下の部76kg級で「2位」の選手だからだ。

 準優勝でありながら敢闘賞を受賞した中島耕平(スポーツ会館)には、レスリングにかかわるもう一つの顔がある。1999年から、レスリング協会の医科学委員に就任し、全日本チームのチームドクターを務めている。

 中島医師とレスリングのつきあいは長い。競技者としてのつきあいは、高校生の頃に通った木口道場(東京・町田市)にさかのぼる。高校はレスリング部がなかったので柔道部に所属し、中量級で東京都のベスト16まで進んだ。レスリングでも関東大会に出場したが、1回戦負け。自分の実力の限界を感じて、選手とは違う形でレスリングに関わっていこうと考えるようになったのだという。

 とはいえ、自分の体を動かす快感からは逃れられず、順天堂大学医学部に進学してからも医学部の柔道部に所属。専門にすすんでからは大学に近い講道館で練習を重ね、医学柔道部の東日本大会では中量級で優勝した。

 実は、医学部を卒業して医局に入るときも、すんなり整形外科に決めたわけではない。「憧れとしては脳神経外科にひかれました。でも、医学以外のことも含めて、これまで歩んできたことを生かせるほうが自分らしいと考えました。学生時代スポーツをやっていただけあるね、と言われたいと思ったんです」

 実は、父親もスポーツ選手をよく担当する整形外科医で、ロス・ソウル五輪メダリストの太田章氏のひざも手術している。そんな事情も、整形外科医になる後押しになったのかもしれない。

 研修医を2年務めたのち、現場に出てすぐの東芝病院で、増島篤医師に出会った。日本オリンピック委員会(JOC)での活動も多い増島医師には、レスリングを担当したいと何度もアピールした。99年に増島氏がレスリング協会医科学委員会委員長に就任すると同時に、念願かなって委員に就任、チームドクターとして代表選手の体をケアしている。

 今は国立スポーツ科学センター(JISS)の所属になり、スポーツ選手を診るのが中心の業務になった。スポーツ科学センターでの合宿にも頻繁に顔を出し、全日本チーム専属のトレーナーと一緒に体を動かしている姿をよく目にする。

 「全日本の合宿を見ていると、それまで知らなかった新しい技を見られます。自分の試合でもちょっとやってみようかな、と思ってたんですけどできませんでした。いざ試合になると、余裕がなくなりますね。恥ずかしいところをお見せして」

 反省しきりの感想とは違って、実際の試合では常に自分から技をかけにいくアグレッシブな姿勢が保たれ、国際標準で推奨されるリスク・レスリングの精神が生きた試合となっていた。なにより、34歳で現場の医師としては中堅どころにさしかかり、練習時間を捻出するのも苦労する環境の中での試合出場は、もっとも社会人大会らしい出場選手といえるかもしれない。この日も、大会後は翌日の学会発表のための準備のために職場へ戻っていったほどだ。

 選手強化への医科学の取り入れが遅れ気味の日本レスリング。まだ医科学を「利用」しなれていない選手たちは、医師の目から見てどう映っているのだろう?

 「レスリングの選手は、調子が悪くても、なかなか自分から言い出さない選手が多いですね。アメリカンフットボールの選手も診ていますが、そちらはアメリカで生まれた競技だからなのでしょうか、ちょっとしたことでもどんどん言ってきます。体じゅうに故障を抱えていても口に出さないレスリング選手たちは、いじらしくて放っておけないです。これからも継続して関わっていけますので、試合前からのコンディション作りに役立てれば、と思っています」

 一方で、自身は社会人選手として続けてゆくのだろうか。「(試合には)出ちゃいけない、と思っているんですけどね。練習をしていると、やっぱり試合をしたくなるんですよ(笑)」。これで最後ですから、と繰り返したが、練習はまだ続けてゆくという。一年もしたら、また試合がしたくなりそうな雲行きだ。

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